月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第十回

2008年12月03日

食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—  第十回

月守 晋

学校での楽しみの1つは昼食の時間である。いまでは小学校での昼食はクラス全員が同じものをいっせいに食べる給食と定まっているが(食品アレルギーなど特別な事情をかかえる生徒は別にして)、志津さんが小学生だったころの神戸では弁当を持って来るのがふつうで、学校の近くの家の子のなかには食べに帰る子もいたという。

志津さん自身はというと、たいてい弁当を持っていっていたが、家に食べに帰ることもあった。

弁当といえば“のり弁”が定番だが、志津さんの弁当にはのりの代わりにチリメンジャコや花かつおがふりかけてある日もあった。いちばんうれしかったのは鮭の粕漬けの弁当で、鮭の粕漬けは志津さんの大好物だった。

酒粕漬や味噌漬は外国人に自慢できる日本特有の魚介類、食肉類の保存法である。

鮭は古い時代から日本人にはなじみの魚である。縄文時代のゴミ捨て場の跡から鮭の骨と判別できる骨が出土しているし、記録されたものとしては8世紀に編輯(へんしゅう)された出雲風土記(いずもふどき)や古事記などにもその名が出てくる。

しかし酒粕に切り身を漬けこんでおいて食べるようになったのは、大量に酒粕を利用できるようになってから、つまり濁酒(にごりざけ)から清酒を造る技術が普及しはじめる16世紀以降のことだろう。

神戸市は灘五郷(なだごごう)と呼ばれた地域(今津郷、西宮郷、魚崎郷、御影郷、西郷)を市域内または隣接市にもっている。酒粕は酒醸の副産物として大量に造られただろうし、それが魚介類や野菜の漬けこみ用に利用されることも多かったろう。

弁当から話が飛んでしまったが、元に戻そう。

“のり弁”は庶民の弁当と思っていたらそうでもないらしい。

1902年(明治35)年の生まれというから志津さんよりは9歳年長、しかも旧鳥取藩主家の池田侯爵家の長女というから、志津さんから見ればはるか雲の上のご身分のお姫様ということになるが、徳川幹子(もとこ)『わたしはロビンソン・クルーソー』(人間の記録?/日本図書センター)にも“のり弁”のことが語られている。引用してみよう。

「学習院女学部の付属幼稚園に通うようになると、お昼はお弁当。私のお気に入りは『べったりお
海苔(のり)』でした。ご飯とご飯のあいだに海苔が敷いてあって、いちばん上にいり卵がのってい
るのです」

志津さんの持っていった“のり弁”との違いは、「いちばん上にいり卵がのっている」ところ。志津さんの弁当はここにものりが敷いてあった。

この記録には弁当の他のおかずのことも語られている。魚がおかずのときは“味噌焼き”だったこと(現在の弁当箱のようにふたがぴったり閉まらないので、煮魚だと汁がこぼれてしまうから)、いちばんの豪華版は“牛肉のつけ焼き”の入った弁当だったこと(1週間に1度)など。

幹子さんは学習院女学部の小学科に進むが、そのころ席を並べて隣にすわっていたのが、久邇宮良子(くにのみや ながこ)女王、大正13年に昭和天皇の皇后になられたかただった。その良子女王の「お弁当だって、わたしのお弁当の中身とそう変ったところはありませんでした」という。「違いといえば皇后さまのお弁当はお昼近くになってから届けられたから、スチームを利用しなくても暖かいお弁当だったことぐらい」と。

寒い季節にはスチーム暖房の上に弁当を並べて温め、時間になると当番の子が小使い部屋に暖かいお湯の入った土瓶を取りに行った。田舎の小学校ではこのスチームが、一辺1mはある大きな角火鉢になる。この火鉢の周辺に、裸にしたアルミの弁当を並べて温めるのだ。

志津さんの記憶では「遠方から来る子は給食をたべていた」ということだが、これはひょっとしたら記憶違いかもしれない。

小学校での給食は明治22(1889)年10月、山形県鶴岡町で始まったと伝えられている。実施したのは同町の私立忠愛小学校。この学校は仏教団体が創設したもので、貧困家庭の子供たちに教育を奨励することを目的とした。

この明治22年という年は維新後、ヨーロッパ諸国並みの近代国家を造り上げようとしていたわが国を初めて経済恐慌が襲った年で、その原因になったのは凶作による物価騰貴だった。翌23年から米価が暴騰し、各地で米騒動が起きている。東北地方は凶作の打撃を最もこうむる地方だった。

忠愛小学校では僧侶たちが托鉢(たくはつ)で集めた資金を基に、握り飯と簡単な副菜を給食した。
(次回につづく)

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