月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第十一回

2008年12月17日

食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—  第十一回

月守 晋

 

<承前>
「遠方から来る生徒は給食をたべていた。麦茶も出してもらえた」と志津さんは語っている。

わが国での学校給食は明治22(1889)年、山形県鶴岡町の私立忠愛小学校で始まったといわれている。

これ以後、全国的に学校給食が普及したのかというと、そうではないらしい。神戸市の場合、大正2
(1913)年に44万人だった市の人口は8年には63万人に増加、市立小学校の在学児童数は6万4千人を越していた。市立小学校は39校あった(翌9年には新設5校、町村合併による編入5校を加え49校となる)が教室数が不足し、398学級で2部授業を実施していた。

8年3月末日をもって、それまで家屋税負担額を財源としていた学区制(つまりは行政区)が廃止され、教育行政・施設などの問題には市が全面的に責任を負うことになった。神戸市はこの機会をとらえて、長年懸案になっていた校舎不足、教室不足という教育施設問題を解決するための財源として、8年に300万円、翌9年にも公債を発行してその総額は700万円に達している。

つまりこの時期、神戸市は施設整備に最大限の努力をしていたのであり、福祉的な給食事業にまで手を回せただろうかという疑念がわく。

そして残念ながら、多分、そこまでの余裕はなかったろうと想像されるのである。

●金融恐慌を起こした大臣失言
『新修神戸史』が学校給食について記述するのは、昭和初期の不況期以後の対策についてである(行政編? くらしと行政)。

大正12年の関東大震災は東京・横浜地域の銀行にも、業務を継続できないほどの打撃を与えていた。これらの銀行の預金貸出高は約24億円あったが、確実に回収できる額は600?700万円に過ぎず、預金者に対する支払い能力は全く無いという状態だった。昭和2年3月14日、震災手形の処理方法を議論する衆議院予算委員会で、片岡直温(なおはる)大蔵大臣から歴史的な大失言が飛び出す。「本日昼ごろ、東京の渡辺銀行が破綻いたしました」事実は渡辺銀行はどうにか当日の決済を切り抜けていたのだが、この発言で取り付け騒ぎが起きる。これが“昭和金融恐慌”の発端である。

各地で体力のない中小企業が休業に追い込まれるなか、波動は第一次世界大戦の戦需ブームでのし上がった新興商社の鈴木商店、鈴木と密接な関係にあった台湾銀行に及んだ。その経営危機が表面化すると各銀行からの融資が止まり、ぼう大な赤字を抱えていた鈴木商店は破綻に追い込まれる。そして直系銀行だった神戸第六十五銀行が業務を休止する。連鎖的に株式相場も暴落し、経済パニックの暗雲が全国を覆いつくした。

さらに追い打ちをかけたのが1929年10月24日、後に“暗黒の木曜日”として記憶されるニューヨーク株式市場の大暴落に始まる世界恐慌であった。

「昭和2年の金融恐慌および4年以降の世界恐慌によって地域経済は壊滅的な打撃をこうむった。
<中略>当時総失業者数は1万2000人にのぼっていた」と『神戸市史』はいう。

この不況期に派生した「家庭困窮による欠食児童、栄養不良児の増加は深刻な社会問題となり、
<中略>昭和7年、政府は「学校給食臨時施設方法ニ関スル件」(文部省訓令第18号)を出し、こうした事態に対応した」

「神戸市も昭和8年から52校、1200人を対象に給食を開始した」と市史にある。しかし、児童1人当たり
20円かかる給食コストに対して、県の支援金7万余円と国庫交付金7470円ではとうてい足りず、市の負担と地元有志の寄付金に頼らざるを得ないのが実情だった。そのため寄付金の集まらない区では給食設備もないため1食7?8銭の給食弁当を市営食堂から調達する有様で、これは味も悪く児童にも不評だった、という。

ともあれ以上の話は、昭和8年以降のことである。志津さんが小学校に在学した大正6?12年間に、市や区の公的な施策として困窮家庭の児童に対する給食が実施されたという記述は見つからないのである。

とすれば、志津さんの“給食”記憶は幻なのか。あるいは心の広い篤志家(とくしか)がいて、給食経費を負担してくれていたのだろうか。

事実は霧の中である。

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