月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第六十六回

2010年03月03日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第六十六回

月守 晋

 

●志津さんの結婚話

昭和5(1930)年、志津さんに結婚話がもちあがった。志津さんは数え年の20歳になっていた。

志津さんの記憶によると「結婚話はある日急に起きた」んだという。それは秋のことで「山崎の小父さん」が1人の若い男を連れて志津さんの家にやってきた、という。山崎の小父さんというのは志津とは一回りも年上の従姉(いとこ)の「旦那さん」である。

山崎の小父さんと若い男は小1時間、養母の“みき”と雑談をして帰っていった。

2人が帰った後で“みき”に呼ばれた志津さんは「あの若い男のことをどう思ったか」とたずねられた。

「どう思うも、こう思おうも」志津さんは「顔もろくに見ていなかった」のだった。

「あの人はあんたのお相手候補や。腕に職のある人や。こんなご時世やから、食べていけることが一番やで」と養母はひとり言のように口にした。

志津さんの周囲ではこのころ、志津さんの結婚が遅れていることを心配する声が出はじめていた。「女は結婚するなら“はたち前”」にという時代だったのである。

当時の法律の定めでは「男性は満17歳以上、女性は満15歳以上」になれば結婚が認められていた。また男女とも満25歳以上になれば親権者の承知不承知にかかわらず本人同士の自由意思で結婚することが認められていた。

志津さんにはそれまでに好きになった男性はいなかったのだろうか。

どうやらそうではないらしいのである。

志津さん一家の手元に奇跡的に残った10数枚の古い写真がある(詳細はこの連載の昭和20年ごろの回で述べる)。その中の1枚に「…家の小母さん」と裏書してある写真があって、その小母さんがどうやら志津さんが淡い恋心を抱いた男性の母親らしいのである。

その一家は志津さんの家の近所に住んでいたらしく、日頃から親しい付き合いがあった。

当の青年はこのころ盛んになっていた左翼運動に関係していたらしく、行方がわからなくなっていた(昭和5年2月~11月末までに関西地方で共産党員やシンパ500名余りが検挙されたがこの事実は報道禁止になっていて翌6年4月に記事がやっと解禁されている)。

志津さんはあい変わらず三菱造船に勤めていた。しかし常雇いとはいっても日給月給の身分は変わらず、仕事も受付と事務雑用と繁忙部課の手伝いであった。

三菱造船に勤め始めたころの日給は50銭だったが、5年の歳月を経ても賃上げはなかった。

すでにこの連載でも触れているが、1929(昭和4)年10月24日のニューヨーク株式市場の大崩落(いわゆる“暗黒の木曜日”)に始まる世界恐慌の大波は日本経済も直撃した。

世界恐慌が日本経済を襲ったのは翌年の1930(昭和5)年3月であった。商品市場・株式市場が暴落し、とくにアメリカ市場に輸出できなくなった生糸価格の落ち込みは全農家の半数に及ぶ220万戸の養蚕農家に深刻な打撃を与えた。

生糸の価格は29年を100として30年には65.7%に、31年には45.3%に落ちた。さらに30年に大農作だった米価もこの年、28年を100として88.2%に、31年には59.7%まで低落している。

鉱工業も例外ではあり得ず、生産指数は29年を100として30年は78.4%、31年は68.3%まで落ちている。

このような場合、企業は倒産を防ぐため必ず人員整理に走る。29年に4.33%だった失業率は32年には6.88%に達し年間60~70万人の工場労働者が解雇された。

(参考資料は次回に明記)

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