月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第六十七回

2010年03月10日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第六十七回

月守 晋

 

●志津さんの結婚話(2)

ニューヨークの株式市場の暴落で始まった世界的な経済恐慌は昭和5(1930)年3月には日本の経済をも襲った。

三菱造船もその影響から逃れることはできなかった。この間の事情を『新三菱神戸造船所五十年史』(昭和32年)は次のように述べている。

「……昭和二年度から急速度に加わった不況の波は当所全生産部門を麻痺状態に陥れ、創業以来の重大危機に直面した。五年にはやむをえず一挙に790人に上る大幅の人員整理を行った」(同書第2編 経営)。

造船の人員整理はこれ以前にも大正8年に初めて職員78名の整理を実施したのに続き、12年に職員27名・工員173名の計200名、14年に職員48名・工員556名の計604名、総計882名の人員整理を行ってきていた。

経営環境の悪化を「……工事量に悩む同業者間の競争はますます激烈となり、原価の半値以下でなければ受注できぬ状態だった」と同社史は説明している。

このような社内事情の中では、志津さんは自分の居場所を見つけることがだんだんむずかしくなっていたのではないかと思われる。

高等小学校を出てすぐの14~15歳の少女にも勤まる受付や事務補助のような仕事をしながら「この歳にもなって……」と20歳の志津さんが考えなかったとはいえないだろう。

ともあれ志津さんは結婚に向かって一歩を踏み出す決心をした。

結婚適齢期を過ぎてしまった“娘”の行く末を案じていた養母みきもこの結婚に同意した。養父傳治(でんじ)はすでに大正5年に死没しており、一家の支柱は養母だった。働きに出て一家の経済を助けていた“姉”たち(実母の妹たち)も大正9年と14年に嫁いでいた。

家には志津さんと同じ三菱造船に勤める兄と弟竹治、それに末弟末冶が残っていたが竹治は船員になって家を出ており、末治は分家して独立させることになっていた。

この家はやがて兄の悟(さとる)が嫁を迎えて新たな一家を築いていくことになる。悟は志津さんの4歳上、24歳になっていたから結婚するのに早過ぎる年齢ではない。

山崎の小父が紹介してくれた男性は、広島県の山間の農村の出身だった。

広島県に三次(みよし)という町がある(現在は周辺の町村と合併して市になっている)。霧の名所として知られる中国山脈に近い山間の町である。

忠臣蔵の発端となった江戸城中での刃傷(にんじょう)事件で式典指導係の吉良上野介に切りつけた赤穂浅野5万3千石の当主内匠頭(たくみのかみ)の奥方・阿久里の実家がこの三次浅野家だった。

男性はこの三次盆地の入り口に近い農村から高等小学校を出るとすぐ、伝手があって大阪に働きに出てきたのである。

志津さんとの縁談が起きた当時は、京都の路面電車の修理工場に勤めていた。志津さんとは5つ違いの年上で、かなり腕のいい旋盤工という話であった。

後日、夫となったこの男性の口から「白い清潔な足袋(たび)を履いて熱心に洗濯をしている志津さんを見て、よし、この女性(ひと)と結婚するぞ」と思ったと聞かされた。

志津さんは老後、自分の娘から「どうしてお父さんと結婚したの」とたずねられて「おじいちゃんが自分で勝手に一緒になると決めて帰ったのよ。……今から思えば夢のような話よね」と応えた。

男性の名は児玉哲二。

志津さんは哲二と昭和6年9月に結婚することになった。

<参考>  『昭和文化1925~1945』/南博
+社会心理研究所/勁草書房 ‘87

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