月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第八回

2008年11月12日

食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年— 第八回

月守 晋

小学校に上った志津さんの得意科目は国語だった。すぐ上の姉(実際には叔母だが)多加が明治38年生まれだから、志津さんとは6つ離れているし、その上の35年生れの喜代とでは9つも違う。

主にめんどうを見てくれたこの姉たちが、片仮名の読み方を教えてくれたので、1年生になったときはイロハ47文字をほぼ読めるようになっていた。他に好きな学科は図画だった。後年、志津さんの1人娘緑子が美術大学に進学するが、その素質は志津さんゆずりだったのかもしれない。

明治時代の小学校では学業成績の優秀な生徒に賞状と賞品を与えることが全国的に行われていた。また品行方正(行いの正しい者)、皆勤無欠席、精勤(よく努力する)などの名目でも表彰された。

賞品として与えられるのは翌年の教科書がもっとも多く、習字用の半紙(1帖(じょう)20枚)、筆記帳、硯箱(すずりばこ)や字典なども与えられている。

賞状・賞品の授与は大正時代に入るとぐんと少なくなった。賞状賞品目的の勉学になりがちな点が反省され、学習の達成度に優劣順をつけて評価することの教育効果を疑問視する声が大きくなったためである。

われらが志津さんが賞状を受け賞品を授与された、という話は残念ながら聞いていない。まあそこそこの成績に、子どもらしいふつうの生徒だったのだろう。

■ 9月入学の小学校

「田舎町の生活誌」と副題のある古島敏雄著『子供たちの大正時代』を読むと、大正時代の小学校には“桜の花の4月”入学ばかりでなく“紅葉の秋9月”に新1年生を入学させる地方もあったことがわかる。

4月入学のばあい、前の年の4月2日から今年の4月1日までに生まれた数え年7歳(昭和25(1950)年1月1日から満年齢が実施された)の児童が新1年生として入学した。この制度に変わりはなかったが、著者が生まれ育った長野県伊那郡飯田町(現飯田市)では4月から9月末日までに生まれた児童を数え7歳になった9月に入学させたのである。

4月?9月生まれの児童数と10月?3月(4月1日を含む)生まれの児童数とを比べるとほとんど同数だったが、9月入学児と翌年の4月入学児の児童数とでは4:15と圧倒的に4月入学児のほうが多かった。「これは実際秋に入る筈(はず)の月に生れた人たちのなかで、親の計らいで翌年4月に入学した人の多かったことを示すのであろう」と古島教授は書いている。

明治45年(1912)年4月14日生まれの著者は大正7年9月に小学へ入学し、13年4月1日からは中学生になった。本来なら小学校卒業年は13年7月だから、中学校へは半年の飛び級で入学していることになる。しかし同級生のうちの中学進学者2人と女学校進学の3人は翌年4月に入ったという。つまり半年間は高等科へ行くなどして待機していたのだ。

飯田町の秋季入学制は著者の入学した年を最後に2年間で廃絶された。やはり全体の教育体系の中で続行するのは無理だったのだろう。

■ 子供の遊び

志津さんの子どものころの女の子の遊びといえば、なわ跳び、お手玉、通しゃんせ、陣取り、けんけんなどであった。近所の遊び仲間となわ跳びやけんけんをして遊んでいると、紙芝居屋の小父さんが回ってくる。お話は時代物が多かった。

半澤敏郎編著『童遊文化史』(全4巻+別巻1/東京書籍)には「大正全期の女児」の遊戯として60種類が掲げられている。生前の志津さんが子どものころに遊んだ経験のあるものに○印をつけてもらったのが、次に掲げる遊びである。

おてだま まりつき
おはじき いしけり
なわとび かくれんぼ
ままごと じんとり
あやとり カルタ
おにごっこ はねつき
たけあそび はないちもんめ
ハンカチおとし とおりゃんせ
うまとび すごろく
たけうま ちよがみ
めんこ じゃんけんあそび
ビーだま じてんしゃ
ブランコ トランプ
かごめかごめ さみせん
ぬりえ

いまこの文章を書いている筆者(昭和10年生れ)にも、「たけあそび」と「さみせん」がどんな遊びなのか見当がつかないのだが、この時代の子どもの遊びの特徴として次の2つのことが上げられるだろう。

1. 室内ではなく外で遊ぶ遊戯が多い。
2. 1人遊びではなく複数の友達と遊ぶことが多い。

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