月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第八十八回

2010年08月25日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第八十八回

月守 晋

 

●志津さんの渡満 - うすりい丸(2)

昭和10年2月に大阪商船が発行した『日満連絡船案内』によると「三等室は小奇麗な絨毯(じゅうたん)を敷詰めた平座敷を多数の小座敷に区画」してある、と説明してある。

3等船室はふつう船底に近いエンジン機械室や貨物室に接するように作られている。 この室内パンフレットにもそう思わせるような、「通風採光には特に意を用ひ電動換気装置もあり、電燈、電扇(せんぷう)機、暖房器も完備し」という記述がある。 つまり、薄暗く風通しの悪い船室をできるだけ快適に過ごせるよう配慮されている、ということだろう。

644名の3等船室をどれほどの数の小座敷に収容したのかはわからないが、乳幼児を連れて臨月間近と見えるお腹をかかえた妊婦を他の乗客と相部屋にするとは思えないから、志津さんたちは親子だけで過ごせる小部屋を与えられたはずである。

うすりい丸など神戸―大連間の定期船の航程は次のように設定されていた。

第1日 神戸 正午発
第2日 門司 早朝着 正午発
第3日 海上
第4日 大連 午前8時着

*11月より3月までは午前9時着

11月から3月まで大連到着が1時間遅れるのは、冬の海は荒れるせいだろう。

船に持ちこめる手荷物の量は船から満鉄の鉄道に乗り継ぐ乗客の場合、2等船客113キロ、3等船客は68キロに制限されていた。むしろや菰(こも)で包んだ物、箱物などは受け付けてくれない。

志津さんは鞍山に落ち着いて後に必要になる品々を前もって哲二宛に発送してあったから自分と子どもの着替えやおむつ、ミルクなど最小限のものを持ち込んだだけであった。

船内の食事は「案内」によると「一等は洋食、二・三等は和食」を供されることになっている。

どのような洋食が提供されたのか、「ニ・三等は和食」といってもどんな料理だったのか、具体的なことはまったくわからない。 2等と3等の船客の間では当然献立に差があったはずだが、志津さんの記憶も定かではなかった。

「案内」には「新鮮な材料を選び、調理を吟味し」とあるのだが。

5円のチップをはずんだおかげで“女のボーイ”さんが子どもたちを風呂にも入れてくれて志津さんは大変助かったという。

長男は誕生前から歩き始め、この連絡船に乗ったころには活発に動き回っていたから“女のボーイ”さんの存在は大きかった。

志津さん母子を乗せたうすりい丸は予定通り、神戸のメリケン波止場を出航して4日目の朝大連港の埠頭に横づけされた。

当時の大連港は4本の埠頭をもち、一時に34隻の船舶を係留する能力をもっていた。

小さな村にすぎなかった大連を商業港として開発したのはロシア帝国である。 大連という地名もロシア語の「ダーリニ―(「遠隔の」という意味)」にちなみ1904(明治37)年5月この地を占領した日本軍が翌年2月に「大連」と改称したものという(『満鉄四十年史』)。

港の構築も市街の設計もロシア帝国の立てた青写真を踏襲して建設が進められた。

志津さん母子のうすりい丸(この船名は満州とロシアの国境を流れる烏蘇里江にちなむ)が入った埠頭には満鉄の線路が引き込まれていて、運んできた船客の荷物や貨物を列車に直接移せるようになっていた。

また特徴的な半円型の屋根をもつ埠頭エントランスを入ると、5000人の客を収容できる待合室がつづいていた。

大連に入港した船の乗客は埠頭を8時30分に出る大連駅行きのバスの便があり、10分ほどで満鉄連京線の始発・終着駅である大連駅に行けたのである。

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