月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第八十九回

2010年09月01日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第八十九回

月守 晋

 

●鞍山でのくらし(1)

大連港の埠頭まで迎えに来ていた哲二に連れられて志津さん母子はバスを乗り継いで満鉄大連駅から連京線で鞍山に向かった。

父親に久しぶりで対面した子どもたちは、長男はすぐになついて膝の上に乗ったのに次男はちょうど人見知りする時期に当たっていたこともあって、父親と顔を合わせると泣きぐずって志津さんを困らせた。

大連から鞍山まで急行だと4時間36分、普通列車に乗ると8時間10分かかった。 運賃は2等8円60銭、3等4円75銭。 急行料金は500キロメートルまで1等3円、2等2円、3等1円、800キロメートルまでは各4円、2円50銭、1円25銭が必要になる。

鞍山についた当座1週間ほどは小山さん宅でお世話になった。 小山夫妻はどちらもからだつきに似て鷹揚なあたたかい人柄だった。

その間にかねてから頼んであった借家が見つかった。 借家は小山さん宅の近所で、造り、間取りも小山さん宅と同じで庭にはこれも付近の昭和製鋼所の社宅同様風呂小屋がついていた。

借家に移って間もなく、昭和10(1935)年2月の初めに志津さんは第3子を出産した。 子どもは今度も男の子だった。 お産はごく軽く15分ほどですみ産婆さんも立ち会った小山の奥さんも、転居してすぐに雇ったニーヤも驚いた。

「ニーヤ」は中国人の「姑娘(クーニャン)」のことで、中国人の少女を安い賃金でお手伝いとして雇うことができた。 志津さんの記憶に誤りがなければ「1か月50~60銭」という安さであった。 それほど中国人少女には現金収入の途がなかったということかもしれない。

<注>当時日本人は中国の人びとを「満人」と呼んでいた。

新しく借りた家は鞍山市北四条町にあった。

1932(昭和7)年生まれというから志津さんの長男と同い年になるわけだが照井良彦さんの『少年の曠野―“満州”で生きた日々(影書房/‘97)』に1937(昭和12)年から3年半住んだ鞍山でのくらしの思い出が語られている。

旅順(日露戦争最大の激戦地)で生まれ、教員だったお父さんの転勤に従って安東(鴨緑江をはさんで朝鮮半島に接する満州側の都市、現丹東)から鞍山に引っ越したのである。

照井一家が鞍山で最初に与えられた社宅は北十一条の「部屋数の多い二階建ての広壮な構え」の住居だった。 鞍山高等女学校に国語・漢文の教師として赴任したお父さんの身分が満鉄社員だったからである。

ちなみに満鉄組織の「地方部」所属の高等女学校は他にも奉天浪速、奉天朝日、新京、安東、撫順の5校があった。

北十一条の住宅は「舗装道路で囲まれた四方形の区画」で周囲をポプラとアカシアの並木が囲み、各社宅は四方の舗装道路に向かって玄関、内側に勝手口があり、社宅が囲む中側は中心にアンズの巨木のある木立ちになっていた。 社宅の子どもたちは「中広場」と呼ぶこの内庭で遊んだ。

その十一条の社宅を背景に撮った一家の写真が掲載されているが、なるほど煉瓦造りの立派な建物が写っている。

しかし2年後の39年春、一家は北十一条の社宅を内地(日本国内)からやってきた「地位の高い人」に明け渡し南一条の社宅に移る。 この社宅は「チマチマとした日本人街の一角に」あり、猫のひたいほどの庭がついていた。

しかしさらに一家は著者が小学2年のとき、南一条の社宅からも追い立てられ南三条の社宅に移される。 新築だったが中央階段で左右に振り分けられた2階建て4戸造りの集合住宅で、転居するたびに部屋が狭くなっていったのであった。

この2階建て4戸造り構造の集合住宅は、後に志津さん一家が住んだ新京の満鉄住宅と同じ造りである。

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