月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第二十二回

2009年04月08日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第二十二回

月守 晋

 

●新開地(2)
小学生の志津さんは映画が好きで、大正5年から住んでいた東海道本線兵庫駅北側(山側)の羽坂通り3丁目の住居から市電通りを東へ、神戸駅の方向へ歩いて30分ほどの新開地へ姉たちに連れられて映画を観にいった。記憶に残っているいちばん古い映画は“目玉の松ちゃん”の忍術映画である。“目玉の松ちゃん”こと尾上松之助は地方の芝居小屋を旅して回る巡業一座の座頭だった。日本映画の父と呼ばれる牧野省三監督に見出され、サイレント(無声)映画時代の大スターに昇った俳優である。“目玉の松ちゃん”の愛称は彼3作目の作品である「石山軍記」で楠七郎に扮したとき、櫓の上から目玉をギョロリとむいて敵をにらみつけてみせたのが観衆に大いにうけたことによる。

志津さんにはどこの映画館で観たのか記憶がなかったが、『わたしの湊川』によれば日活(日本活動写真株式会社)が売り物にしていた尾上松之助主演の活動写真は錦座で上演されていたようである。

志津さんが観た松之助扮する忍術使いが猿飛佐助だったのか霧隠才蔵だったのか、あるいは児来也(じらいや)だったのかもわからない。しかし松之助扮する忍術使いは当時の子供たちに圧倒的な人気のあるヒーローで、『わたしの湊川・新開地』の著者も「松之助の忍術ものやトリック撮影に胸を高鳴らせた、松之助が大好きだった」と回想している。

アメリカ映画やヨーロッパ映画も明治末から大正の初めにかけて輸入され、上映されていた。

チャップリンの喜劇が「日本の見物に明確な印象を与えるようになったのは、大正4年(1915)1月、みくに座に封切された「メーベルの困難」で」と田中純一郎が書いている(『日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代』中公文庫)が、神戸では大正6年から錦座の正月興行でお目見得した。この正月興行は“ニコニコ映画大会”と呼ばれ、短編喜劇をまとめて10本くらいいっきょに上映するのである。

チャップリンの2巻物のドタバタ喜劇も上演されて大変な人気だった。志津さんも観たらしいのだが、残念ながらタイトルまでは覚えていなかった。

入場料は、志津さんの記憶によると「3銭から5銭」で「5~6人が並んですわる長椅子」にすわって観た。無声映画だったので弁士がついていて「上手な弁士のときには客の入りもよかった」という。

入場料については『わたしの湊川・新開地』の写真ページに「三等三十銭、二等四十銭、一等五十銭、子供各等半額」という昭和初期の松林館の銅版の観覧料表示板が載っているが、『むかしの神戸』には「五十銭もあれば活動をみて、お腹いっぱい食べてお釣りが来ました」という郷土史家の懐古談が紹介されている。作家の田宮虎彦は志津さんと同じ明治44年の東京生まれだが、3~4歳のころから神戸の堀割の6軒つづきの棟割長屋の1軒に母親、兄と暮らしていた。(父親は船員で不在がちだった。)

堀割という地名は「測候所山の中ほどを掘り割って、奥平野(おくひらの)から港の方へ下りてゆく近道にした道筋」と田宮は説明している(『神戸 我が幼き日の・・・・』中外書房/昭和33年刊)。

幼いころ、田宮はよく三宮や新開地に遊びに行った。昨今の子供と違って、昔の子供は月ぎめの小遣いなどもらえなかったので、母親の財布から小銭をそっと盗み出して小遣いにあてることがままあった。「私は母親の財布からギザギザのついた五十銭銀貨をこっそり盗み出しては、三宮や新開地へ出かけていったのだった。一杯が一銭か二銭だったひやしあめを飲んだり、子供は五銭の活動写真館にはいったりしたのだ」と田宮の回想では、活動の子供料金は5銭である。

新開地には200軒をこす店が並び食べ物屋も多くしかも安かった。鯨肉が名物の店、天丼の「奴」、ビックリうどんにビックリぜんざい、粕うどん、ポンポン飴、天ぷらやすしの屋台、コーヒー店。劇場内では「みかんにおせん、あんパンにラムネ」と木箱を首につるした売子が回ってきたのである。

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