月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第二十一回

2009年04月01日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第二十一回

月守 晋

 

●新開地
小学生のころ、映画好きだった志津さんは家から歩いて30分ほどの新開地の映画館によく連れていってもらった。

神戸の繁華街といえば元町と新開地である。元町は明治7年、11の町が元町通、栄町通、海岸通、北長狭通と改称されて生まれた4つの通りの1つだが、東隣が外国人居留置に接していたので明治3年には市田写真館、6年には「元祖牛肉すき」を掲げる月花亭(げっかてい)が開業するなど、居留地外国人も買い物に訪れるハイカラな雰囲気の商業地として発展した。

一方、新開地は湊川の流路付け替えで生じた埋め立て地にできた街である。神戸市は狭い海岸平地に発達した町で町並みのすぐ背後に山地が迫っている。豪雨でも降ると六甲山地はあちらこちらで崖くずれや斜面崩落が起き、市内を流れる河川の氾濫を引き起こした。旧湊川は維新後5回も洪水を起こし、5度目の明治29年の大洪水の後、湊川の流路を付け替えるために民間会社が設立された。工事は順調に進み34年に新流路が完成、38年には付け替えられた旧流路の埋め立て工事も完成した。

新開地はこの埋め立て地に生まれた新市街地なのだ。埋め立て当初は当時流行しはじめていた自転車の練習場になっていたらしいが、2年後の40年に神戸駅近くにあった劇場・相生座が移ってくると同時に活動写真館(映画館)の電気館、日本館が開館し、これが引き金になって劇場、寄席、映画館がつぎつぎに開かれ敷島館に朝日館、菊水館、松本座、錦座さらに菊廼座、湊座、稲荷座と開設は相ついだ。

旧湊川の高い堤防にはさまれた流路を埋め立ててできた新道は5.8キロメートルあり、ちょうど神戸地区と兵庫地区の中間にあたるので、両地区を結びつける役割も果たした。

活動写真館の電気館と日本館は相生座の真向いに開場した勧商場の地階にあった。

関西では勧商場、関東で勧工場と呼ばれた施設はいわばショッピング・センターで、明治10年に開かれた第1回内国勧業博覧会の残品を売るために翌11年1月、麹町丸の内に東京府(当時)が建てたのが最初である。内部は商品別に13に区分されていた。これが明治期を通じて全国にひろがり、経営形態も官営→半官半民→民営へと移っていった。

新開地は「明治44年の正月には劇場、活動写真館、寄席など20館に増え、新開地を訪れた人は三が日で40万人を超えた」と『絵はがきに見る明治・大正・昭和初期/むかしの神戸』(和田克己編・著/神戸新聞出版センター刊)には述べられている。

『神戸市史/産業経済編Ⅲ』には「大正11年の資料によると、新開地には20の興行施設のほかに200の小売店舗が集積しており、飲食料品・雑貨・衣料品などの店が多数軒を連ね、露店も多く見られた。さらに特徴的であるのは、新開地という一つの商店街の中に勧商場が5軒も存在したことである。この事実は、新開地がきわめて大きな購買力を持っていたことを示すもの」と述べている。

鉄筋建築の地上3階地下1階の演劇の殿堂聚楽館が大正2年にオープン、13年には神戸タワーが湊川公園内に建てられ、昭和に入っても3年に湊川温泉、9年にアイススケート場が開設され、神戸一の繁華街へと成長するのである。

斎藤力之助『わたしの湊川・新開地』は明治41年に兵庫区西宮内町で生まれた著者が大正7、8年の小学4年生ごろから昭和20年の敗戦の年まで、活動写真・演劇・映画を観にかよった時期の回想記である。著者がかよった16の映画・演劇館とそこで観た映画・演劇の詳細が語られている。

この書やその他の資料にも頼りながら、志津さんの新開地体験を追ってみたい。

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