月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第一回

2008年09月10日

食の大正・昭和史 — 志津さんのくらし80年 — 第一回

■ 誕生

志津(しづ)さんは明治44(1911)年9月23日、当時の表記で神戸市林田区金平町でこの世に生を受けた。父傅(でん)治、母みきの 6女として10月2日に出生届が出された。

この年1月18日、大審院(最高裁判所)は幸徳秋水(こうとくしゅうすい)ら大逆事件(天皇の暗殺を企てたという冤(えん)罪事件)の被 告24人に死刑判決を下し翌日12人を無期に減刑、24日に11人を、25日には被告人中ただ1人の女性囚だった菅野スガ(31才) を処刑してしまった。年明け早々から波瀾ぶくみの年だったのだ。

この年も前年に引きつづき、米価が高騰して人びとの生活を苦しめた。43年には天明の大飢饉(天明3年<1783>から7年までの5年間)以来といわれる大水害が東北・関東・関西・九州を襲い、米の収穫量が700万トンを割った。

※日本人の1人当たりの米の消費量は、明治30年代に2.8合(ごう)(1升(しょう)=10合=1.5kg)になったという。年間に 直せば1石(こく)=150kgだ(本間俊朗『日本の人口増加の歴史』)。
[※1人当たりの米の消費量は、大正時代の後期にピークをむかえ3.1合に達した(前掲書)]

収穫高が減る一方で消費量が増えれば、当然価格は上がる。おまけに取引市場で儲けをねらう買占めが横行し、相場は高騰、暴騰をつづけ 、ついに7月、政府は取引中止を命令する。一方で外国米の緊急輸入を実施、高い国産米を買えない貧困層を救うために輸入外米を売り出した。

明治中期ころから東京では残飯屋という商売が繁盛した。残飯の供給先は士官学校の厨房(ちゅうぼう)や竹橋・赤坂・麻布などに置かれていた陸軍聯隊の兵舎の調理場だった。
朝8時、昼12時半、夜8時と1日に3回担い桶(にないおけ)や醤油樽を大八車にのせて仕入れに回る。買い値は残飯15貫(貫≒3.75kg、15貫≒56.25kg)が50銭。売り値は1貫5?6銭。買い手はどんぶりや小桶を持参して1銭分、2銭分と買ってゆくのである。

味噌汁や漬け物、煮しめなどのお菜も引き取って帰り売りさばいた(『最暗黒の東京』松原岩五郎/岩波文庫)。外米にも手の出ない極貧に苦しむ人びとが買い手だった。ちなみに当時、国産米1升が23銭から
25銭、サイゴン (ベトナム)米はその半値ほどだった。

戦死者だけでも12万人、國の税収の5年分以上を費やした日露戦争(明治37?38年)の影響も強く残っていたし、社会一般のくらし はハードなものだったけれど、いろいろな人がなんとかくらしをもっと豊かな、余裕のあるものにしようという試みを実行に移してもいた。

■ 日本で最初のカフェ開業

明治44年4月、東京銀座の日吉町にカフェ・プランタンが開業。経営者は有名な洋画家だった松山省三(せいぞう)。軽飲料にウイスキー やビール、ビフテキはハンバーグ、マカロニといった料理も出した。コーヒー15銭、ビフテキ25銭、マカロニ20銭という値段だった 。(松山重子『おとうちゃんは女形国太郎』)

プランタンが大繁盛したので同じ年の8月銀座尾張町角にカフェ・ライオン(築地の精養軒の経営)、京橋の南鍋町にカフェ・パウリスタ が開店した。

コーヒーの15銭は当時、もりそば、かけそばの3銭5厘(りん)にくらべればずいぶんと高い。前年の43年11月に横浜市の元町で不二 家が開業しているが、コーヒー、紅茶、デコレーションケーキ、シュークリームなどどれをとってもみな3銭均一だった。カフェは文士や 画家、役者、芸人、新聞記者など大人(おとな)の男たちの集まる場所だったが、一般大衆の感覚としてはコーヒー1杯3銭でも高いと感じたろう。

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