月守 晋

ミステリーの町々

ミステリーの町々 ➂バルセロナ

助手兼料理人のビスクテールが、狭い事務所のキッチンで作ったジャガイモ入りのオムレツの、10立方センチの4分の1を口にしながら、カルバイヨは受け取った電報に気を取られている。
ペペ・カルバイヨは元共産党員。CIAのエージェントもしていたことがある。今はバルセロナで私立探偵をやっている。
彼はラス・ヴェガスからサンフランシスコへ向かうジェット機の中で、たまたま乗り合わせて知った、多国籍企業ペットネイ社のスペイン代表、ハウマの未亡人から一日2千ペセタの日当と、解決したら10万ペセタの特別ボーナスをもらう約束で、ハウマ殺害の真相究明に乗り出したところなのだ。
ハウマは後ろから一発で心臓を撃ち抜かれ、バルセロナ北部のビーク近くの藪(やぶ)の中に埋められていた。発見者は車で通勤途中の勤め人で、自然の要求を処理していて、半ば埋もれていたハウマの手を掘り出してしまったのだ。

電報はハウマに誘われるまま、サンフランシスコのフィッシャーマンズ・ワーフの「アリオットの店」で伊勢海老を食ったとき、同席していたペットネイ社監査役ヂーター・ロンベルクからのもの。
時をはかったような、ロンベルクの不意の来訪は何を意味するのか。頭を働かせながらもカルバイヨは、ビスクテールがお得意のラタトウイユ(野菜の煮込み)と臓物のパテにも手を伸ばす。ビスクテールに言わせれば、「ボスは針みたいに細いけど、食べるわ食べるわ」という食欲の持ち主なのだ。
なにしろ、「それは気の触れていない人間が犯しうる、最高にすばらしい狂気の一つ」だそうだけど、午前1時に鴨のサルミ料理(若鴨を丸焼きにしてバラし、その内臓の刻み肉やキノコ、トリュフ、脂身、パン粉のソースをかけてオーヴンで焼く)を作り始め、午前2時半、出来上がった料理をオーヴンの余熱に託して隣人の友人を叩き起こし、午前4時から男2人だけの酒宴を始めようというんだからね。
しかし、こんな狂気に付き合うヤツも付き合うヤツだ。叩き起こされたほうも、小型のバスケットに干し果物や蜂蜜、ビスケットを腹一杯詰め込んで馳せ参じる。スペイン人というのか、カタールニア人といえばいいのか、ともかく彼らはとんでもない人種だね。

さて、ペペ・カルバイヨの探偵事務所は、ランブラス通りのビルの、日本風にいえば10坪ほどの部屋だ。
ランブラス通りはバルセロナ市の中心カタルーニァ広場から、港へ向かってコロンブス記念柱まで、1400mほど南北に伸びている通りだ。
通りの東側が有名なゴシック地区。13世紀から15世紀に建造されたゴシック建築の粋といわれるカテドラルを中心に、県議事堂や市庁舎、歴史博物館、王の広場など歴史的遺構がたくさんある。レアル広場には日曜日ごとに、午前中は切手と古銭の市が立つ。
ランブラスの語源はアラビア語の「踏み分ける」だそうで、英語にも「そぞろ歩き」の意味のramble(ランブル)ということばがあるよね。高校英語で習わなかった?
ランブラス通りは道の両側にプラタナスの街路樹が植わり、ぶらぶら歩きや買い物にとてもいい通りだ。
ゴシック地区とは反対側、通りの西側はチーノ地区と呼ばれ、こちら側にはあの異常なる大天才ガウディが建てたグエル邸が、レアル広場と通りをはさんで立っている。今は演劇博物館になっているから、だれでも内部を見られるわけだ。
観光案内書を読むと、このチーノ地区には女性だけで宿泊するな、と書いてあるけど、どうなんだろうね。

ところで、バルセロナといえばガウディだ。1882年に着工して、1927年にガウディが没した後、現在にいたってもまだ工事続行中という聖家族教会、セラミックのモザイクの美しいグエル公園や彫刻のような形態をもつカサ・バトリヨなど、この町にはガウディの主要作品がほとんどそろっている。
話をカルバイヨ探偵にもどそう。
殺されたハウマは1950年代には18歳の若者で、非合法活動に加わっていた。その頃に、仲間六人と撮った写真を手に入れたカルバイヨは、彼らとハウマの死の間の関連を探り始める。残った六人のうち、二人は急進的な活動をつづけ、一人はやり手の弁護士、一人は作家、一人はヨーロッパ最大手のヨーグルト製造業者、そして一人は活動の語り部、傍観者の位置に身を引いてしまった男。
調べていくうちに、ハウマの死はどうやら、ペットネイ社の帳簿から消えてしまった2億ペセタの使途と関連することが分かる。そして犯人が、写真の六人の中の一人であることも。
調査の途中でロンベルクも殺され、カルバイヨ自身も情婦で高級コールガールのチャロともども、犯人の手先の男たちに痛めつけられる。
M・バスケス・モンタルバンの『死の谷を歩む男』(原題は『マネージャーの孤独』なんだかなあ・・・)田部武光訳・創元文庫は、スペインのカタルーニァ地方、とりわけバルセロナの空気が、新鮮な海の魚介料理や、羊や豚や野兎や野鳥の煮込みの湯気や香気とともに、全編を包んでいる美味しい一編だ。
スペイン好きにはたまらないだろうな。

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