月守 晋

ミステリーの町々

ミステリーの町々 ⑯大連

南満州鉄道は、大連を起点に長春までの437.5マイル(約7百km、東京-岡山間の距離に相当する)を走る路線のことを言った。旅順線の他3線、計4線の支線をもち、もともとは帝政ロシアの東清鉄道南部線の一部だった。
明治37,8年の日露戦争の結果、日本に帰属することになったが、もとを質せば野戦用の鉄道である。
支線の「旅順」は日露戦争時に、軍港の支配権を争ったところ。「撫順」は露天掘りの大炭坑があることで有名だ。

“アカシアの”と形容詞のつく「大連」という地名は、「大陸」へ「連なる玄関口」の意味でつけられた。大連から、78の駅をへて終着駅長州に着くが、長州は1932(昭和7)年3月、「満州国」が造られた時に「新京」と改称された。
ついでだが同じ昭和7年は、第1回の日本ダービーが開催された年であり、中国軍との交戦が始まった上海事変の都市であり、犬養首相が海軍の青年将校らに射殺された5・15事件の年であり、満州へ武装移民団が出発した年である。
(さらについでだが、裾の乱れを気にしてて逃げ遅れ、14名の死者と21名の重傷者を出し、日本女性に下着をはかせるきっかけとなったといわれるデパート白木屋の火災も、この年の12月16日に起こった)
鮎川哲也氏の『ペトロフ事件』は、この南満州鉄道(満鉄)が、アリバイ造りに利用されている鉄道ミステリーの先駆け的作品である。昭和25年4月の、「別冊宝石」に発表された。
事件の被害者は夏家河子駅(旅順支線の駅で、大連からは二つ目だ)の山の手にある、ロシア人村に住むイワン・ペトロフという老人。非常識な金満家の偏屈な人間で、60歳の今日まで独身だった。
発見者は甥のアントン青年。彼はハルピンから、伯父の手紙で呼び寄せられてきたのだ。
ペトロフ老人は書斎で、何者かと対談中に射殺されていた。
事件を担当するのは、鮎川ファンにはおなじみの鬼貫警部。まだ35歳という若さである。
ペトロフ老人が死んで、老人の莫大な遺産をつぐ者は3名。先のアントン青年、老人の兄の2人の息子、ニコライとアレクサンドルの都合3人である。そして、この3人がいちばん疑われる立場にある。
青樹社から再刊されている『ペトロフ事件』の新書版(昭和62年刊)には、この作品が書かれた当時の「大連」と「ハルピン」両市の市街図、それに満鉄の「時刻表」がそえられている。
それによると、新京―大連間の乗車賃は1等45円15銭、2等29円60銭、3等15円25銭である。所要時間は普通で16時間32分、急行で11時間、特急で8時間25分だ。
この特急が「あじあ号」だ。

あじあ号は、満鉄ご自慢の列車だった。流線型のスマートな車体で、最高速度は蒸気機関車ながら110km。客車は冷暖房も完備していた。
私は満鉄社員だった父親につれられて、よくこの路線の列車に乗った。たいていは、釣りのためである。新京からハルピン行きの列車に乗り、松花江に近い駅で降りた。ミミズの餌で、獲物はフナに似た魚や鋭い歯をもった雷魚だった。
あじあ号にも、釣り用のボロ服で乗りこんだことがある。社員用の2等パスだったが、座席はいつもガラガラに空いていた。

さて・・・・・・。
『ペトロフ事件』には、当時の大連の市街地の様子が詳細に描写されている。
手元にある、現在の大連市街図と、比較してみると、基本的なレイアウトは当時とほとんど変わっていない。本書の説明にもあるとおり、大連は7つの広場を中心とする放射状道路とその間を埋める市街区で構成されている。
7つの広場のうち、もっとも中心となるのが大広場で、現在は「中山広場」といいこの広場に面して、かつての大和ホテル、現在の「大連賓館」がる。このホテルはルネッサンス様式の、手元の資料の写真では5階建てに見える建物で、客室は115室あった。

大和ホテルの他にも民政署や横浜正金銀行などの建物が、現在もそのまま使われている。
容疑者の兄弟の弟の方、アレクサンドルは「星が浦」に住んでいることになっているのだが、この星が浦という地名にも思い出がある。ここは有名な海水浴場のあるところで、敗戦の年の前年の夏、当時新京商業の1年生だった長兄が学校から海水浴に出かけた。持って帰ったお土産が青い林檎で、それがなんともいえぬ南国の香りだったのだ。
ペトロフ老人殺害の犯人は、鬼貫警部の見事な推理で解決するが、この小説を読むときは、できればこの小説と同じ時代の大連の詳細な市街図を手元に置いて読んでほしい。面白味が一段と増すはずである。

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