月守 晋

ミステリーの町々

ミステリーの町々 ⑦ケンブリッジ

コーデリア・グレイがシニア・パートナーのバーナード・プライドを火葬に付して、キングリー・ストリートの事務所にもどってくると、女客が待っていた。
バーニイは癌を宣言され、治療を受けるよりも自分で手首を切る途を選んだのだ。
コーデリアは始め、習得していた連記とタイプの腕でバーニイの事務所に雇われた。それが二、三週間後には事件の手伝いをするようになり、二か月後には彼のパートナーになった。それで定期給ではなく、彼の家の一部屋を無料で借りられる特典はついたが、成功の賞金の半分が収入になる、というかたちになった。

バーニイは警視庁(ヤード)の犯罪捜査部(C・I・D)で身につけた捜査技術を、コーデリアに仕込んでくれた。そして、今度は死んで事務所の仕事とすべての付属品をのこしてくれたのだ。弾丸三包がついた三八口径のセミ・オートマティックの、無許可のピストルも含まれている。
バーニイがのこしてくれた私立探偵の仕事を、絶対につづけていこうと決心してから四日たっていたが、客もなく、電話もなかった。だから、バーニイが死んだとわかって、無駄足をふんだといわれても、この女客をみすみすだまって帰すわけにもいかない。
女客は自然保護論者として著名なロナルド・カレンダー卿の秘書で、彼女が卿に電話で問い合わせて、ともかくコーデリアは卿のケンブリッジの屋敷までおもむくことになった。
ケンブリッジ行きの列車は、ロンドン市発祥の地「シティ」の東部のリヴァプール・ストリート駅から出ている。ロンドン=ケンブリッジ間は一等で9ポンド15,二等で6ポンド10。時間は曜日によって違うけれど、だいたい1時間5分から20分ぐらいかかる。

ケンブリッジ駅には、少し下品にした天使の顔の青年ルンがヴァンで迎えに来ていた。駅から市の中心までは、約2㎞ある。ご周知のように、市の中心にケム川が流れていて、この川に実に数多くの橋がかかっている。それがこの市の名の由来で、オックスフォードと並んで、大英帝国の屋台骨を支えてきたエリートたちを代々育ててきた大学都市だ。
卿の邸は車で30分の、郊外の村にあった。長い赤煉瓦の塀に囲まれた、ジョージ王朝風の、がっしりした風格のある建物だった。
優雅な書斎のフランス窓のジョージ王朝風の机の前に、想像していたよりずっと小柄で、高い知性をもつ印象的な人物がすわっていた。それがロナルド卿で、依頼された調査は、卿の子孫マークの自殺の理由を突きとめることだった。マークはケンブリッジで歴史を学んでいたが、5週間前に大学をやめ、庭師になってしまっていた。彼は21歳で、18日前、住み込んでいたマークランド少佐のカテージで革帯で首をくくって死んだのだ。
率直に問われるままに、コーデリアは卿に料金を告げた。1日5ポンドと必要経費、でも経費は出来るだけ少なく押さえます。
アメリカのサンノゼで所員40名をかかえる探偵事務所の所長ヤング・マサコさん(日本名宮内真砂子)のところでは、原則として1時間25ドルだそうだけれど(『探偵マサコ、アメリカを走る』早川書房)、1日5ポンドというと、コーデリア・グレイが登場した1972年当時、1ポンドが8百円と計算して4千円だ。これは、まァ、そんなに悪くはない収入だったろう。
ともあれ、ウィリアム・ブレークの詩「天国と地獄」の一節を遺言書代わりに残したケンブリッジ大学生の自殺の真相を突きとめる、コーデリアが一人だけで立ち向かう初仕事はこうして始まった。
イギリス人の田園好きは恐迫観念的なほどだけれど、翌日、準備万端整えてクレモナ・ロードのバーニイの家を出たコーデリアも、ロンドンを北へミニで脱出して、イギリス東部の平坦な陽光みなぎる田園のドライブを楽しみながら、マークが庭師をしていたダクスフォード村へ向かう。マーク青年が住み込んでいた、《サマーシリーズ》のカッテージの部屋をひととおり調べ、次にはケンブリッジへ向かった。
ケンブリッジでは新聞社の後、警察を訪れる約束の2時半まで、彼女は《バウズ&バウズ》書店でいちばん安いガイドブックを買って、市内を見物してまわる。幸福感にうっとりしながらの1時間半だった。
大学の庭や《バックス》、平底船の行き交うケム川、新しいギャレット・ホステル橋、トリニティ図書館とキングズ・カレジ・チャペル。見物の間に、西口の店でチャペルを染めた麻のテーブル・クロスを買い、商店街でキーツの小詩集と、緑と青と茶に染めたトルコ風の木綿の服を買った。
ケンブリッジは15歳のコーデリアの夢だったのだ。

P・D・ジェイムズの『女には向かない職業』(早川ポケット・ミステリー)は、22歳のかれんな女性探偵の物語だ。そして、いかにもイギリスのミステリーらしい。ハッタリのない小説だ。植草甚一風にいうと「キザっぽさがまったくない」ということになる。
P・D・ジェイムズといえば《ダルグリッシュ警視物》がすぐ思いうかぶけれど、この小説には傍筋として登場してくるからうれしい。
魅力的なコーデリア・グレイの再登場はこの十年後、『皮膚の下の頭蓋骨』まで待たなくてはならなかった。
《注》コーデリアはシェイクスピア『リア王』の中の女王の名です。

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