月守 晋

A petty talk on chocolate

【希有な女性たち】(4)■川合小梅の日記■

【希有な女性たち】(4)■川合小梅の日記■
1999/11/26

一日天気の日には○、雨の日には●、午前中は降って午後雨が上がった日は○の右半分を黒く塗る。
午後から雨なら左半分を黒く、というふうに毎日の天候を自分で工夫した記号を使って記録しながら、残されている分だけでも約四十年、詳細な日記を書き残した女性
がいた。保存されている日記は嘉永2(1849)年から、維新をはさんで明治十八(1885)年まで。書き手は川合小梅という。
紀州藩の奥詰儒者・学習館督学川合豹蔵の妻だった。もっとも、小梅は家付きの娘で、豹蔵は婿さんだ。

小梅は文化元(1804)年に生まれ、明治二十二年、大日本帝国憲法発布の年に八十六歳で没した。
川合家は小梅の父親も祖父も入り婿で、三代つづきの女系家族だった。紀州藩には祖父が仕官して家臣に加えられたのである。

嘉永二年の日記は八朔、八月一日から始まる。この日早朝、夫・豹蔵(号梅所)は梅本千太郎の元服に烏帽子親を務め、肴代と扇子一箱を祝い、お返しにハマチ一尾をもらった。
買い物はアナゴを二本と酒一升五合を買い、代金はそれぞれ一匁と二匁だった。お酒は仏手柑酒をつくるためのもの。仏手柑(ブシュカン)はミカンの仲間で、果実の先が裂けて
指を十本並べたようなかっこうになるのでこの名がある。「らんびき」という蒸留用の器具を使って、仏手柑の蒸留酒をつくるつもりだったようだ。そのうちに、「松下」という
家から子どもが死んだという報せをもって使いがきた。豹蔵と一人息子の岩一郎は梅本家に招ばれていたが岩一郎が夕刻、権七に提灯を持たせて様子を見にゆき、母上も七つ(午
後四時)ごろ酒券一枚をもって挨拶に行った。

小梅の日記にはこのように、日常の大小の事が細々と記されている。だれが何をしたか、どこへ行ったか、何を買いいくら支払ったか。そしてことに、だれが何の用事できて、家
のだれがどこへ何の用事で行ったか、を詳しく書く。読んでいて驚くのは、川合家の人の出入りの多いこと。そして、客のあるたびに酒を出し、肴をつくる。主婦・小梅は超多忙
である。

川合家の家禄は三十石ほど。豹蔵が慶応元年に足高(本給ではなく手当て)を十石加増されて四十石、徳川御三家の和歌山藩では下級の藩士だろう。小梅は儒者の家の一人娘に生
まれて家業の儒学を子孫に継ぐべく、養子をもらって息子を産み、家の切り盛りにおおわらわの活躍をした。さらに祖父、母から仕込まれた漢学・和歌の素養、習い覚えた書と画
技で家名の維持に一役も二役もかっている。日記から読み取れるのは、実にあっぱれな小梅の女ぶりである。

『小梅日記』は平凡社の東洋文庫に全三巻で刊行されている。幕末から明治へ、大変動の時代を生きた一人の女性の日常が、その息づかいまで伝わってくるような、興味つきない
読み物である。

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