【希有な女性たち】(3)つづき■日本で最初の女子美術留学生 山下りん■
1999/11/05
〔承前〕 ロシア正教会から派遣された宣教師ニコライは明治5年、宣教の中心を函館から東京に移して駿河台に神学学校を作って布教に専心した。
ニコライにはかねてから東京に大聖堂を建設したいという望みがあり、そのため、聖堂に掲げる聖像画-イコンを描くことのできる画家を養成しようと考えた。
ニコライが最初に白羽の矢を立てたのは、りんの美術学校の同級生の山室政子だった。しかし山室は十三年に美術学校を退学し、岡村竹四郎という男と結婚してしまう。ニコライは美術学校の授業料も出して政子を援助していたが、裏切られたわけである。そこで急遽、代役に選んだのがりんだったのだ。
ペテルブルグのりんの落ち着き先は女子修道院であった。60歳ちかい姉妹の修道尼と同室で、一人は絵の教師、一人は言葉を教えてくれた。
三月十七日に修道院に入り、さっそく翌十八日から絵の修行を始め、二十二日には「ヤソノ画」にとりかかっている。
りんはペテルブルグに明治十六年三月七日まで滞在し絵の修行に励んだ。しかし、りんの画技修行は平穏無事とはいかなかったようである。
修道院でりんが言いつけられたのは、既成のイコンの模写であって、専門家の解説によると、その画法は何をどのように描くかがきまってい、画家の創造力が関与するところは少ないという。
りんは工部美術学校でイタリア近代美術の精髄を学び、高い技術を修得しているだけでなく、画家としての才能も抜きんでていた。
信仰の対象とはいえ、型絵のように同じ絵を繰り返し描くことには耐えられなかったろう。
しかも、肝心の指導にあたる尼僧のほうが、絵の技量は「実ニツタナイ」のだから。
ことばの壁が立ちふさがる中で、りんはどうにかして自分の希望を果たそうとして、周囲の尼僧との間に軋轢をうんだのだ。
六月になり、りんはエルミタージュ美術館を見学、「高大之画」に接して大いに刺激を受ける。
そして八月二十五日から十一月二日まで、エルミタージュに通い、イタリア・ルネッサンス絵画の巨匠の絵の模写をする機会を得た。
しかし、その機会は突然、差し止められてまう。
りんが美術館で模写に励んだラファエロの絵は、同じ宗教画とはいえロシア・イコンとは異質のものであり、修道院の尼僧たちには大いに気に入らなかったのである。
りんの「旅券願」に書かれていた修行年限は五ケ年であった。しかし、りんは予定のおよそ半分、2年半ほどでロシアを離れてしまう。
エルミタージュ通いを止められた後のりんは、鬱々として日を過ごした。絵の修行のほうもあまり熱心ではなくなったようである。
修道院の指示でまた「ギリシヤフウノ画」、つまりロシア・イコンの模写をする毎日が返ってきた。「ヲバケ画」とまで日記に書いているのだから、楽しかろうはずがない。
りんが再び横浜の土を踏んだのは、明治十六年三月二十七日である。帰国後はニコライ大主教の下で、聖画制作に没頭する日々を送った。
大正七年、六十一歳のとき故郷笠間に帰り、昭和十四年に八十二歳で死去するまで、弟・峯次郎の敷地内の一軒家でくらした。峯次郎の孫、日動画廊が出版した『山下りん』の著
者小田秀夫氏によると、帰郷後は「ふっつりと絵筆を捨てた」ということである。
あえて「もしも」と想像するのだが、りんの留学先がロシアでなくパリかイタリアのどこかで、学んだのがロシア・イコンではなく当時のヨーロッパで花咲いていた、時代の先端
をゆく近代絵画であったら、りんの帰国後の日本の絵画は、また違った発展を遂げたのではないか。
「日本におけるもっとも本格的なキリスト教美術」であるりんのイコンには、「イタリアの甘く明るい血の気が通っている」と若桑みどりが書いている(岩波新書『女
性画家列伝』)。
〔参考文献;上記のほか、瀧梯三『日本近代美術事件史』、高橋保行『イコンのかたち』など〕