月守 晋

あの雑誌が創刊号のころ

【あの雑誌が創刊号のころ】■柳田国男研究■

【あの雑誌が創刊号のころ】■柳田国男研究■
1999/8/27

季刊、A5判・156ページ、定価400円。発行/白鯨社。創刊・昭和48年2月1日

柳田国男の名は『遠野物語』や『海上の道』と結びつけて覚えている人が多いだろう。明治四十三年に初版が出た『遠野物語』は、今、観光地として人気のある遠野で、佐々木鏡
石という土地の住人から聞いた郷土の話を書き留めたものだ。書き留めた話は地誌に始まって全部で119あり、ザシキワラシやオシラサマの話も収録されている。『海上の道』
はかつてよく歌われた唱歌、「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ」が生まれる発想の基になった。日本民族の起源を考察した先駆的な名著といわれている。

一口に“柳田民俗学”といわれる日本の民俗学の産みの親は、明治8年兵庫県に生まれ、昭和37年まで生きた。
大正8年、貴族院書記官長を最後に役人生活から退いたが、役人暮らしの始めは農商務省だった。「柳田」は養家のもので、生家は「松岡」だ。

この「研究雑誌」が創刊された昭和48年は、『日本列島改造論』の影響で土地ブームが起き、ブルドーザーがそこらじゅうを掘り返していて、“開発”の掛け声の下で“郷土”
というものがこの地上から大規模な範囲で消えはじめていたころだ。また、第1次オイルショックの激震が列島を襲い、日本社会を物不足パニックが覆った。
「民俗の思想を探る」と副題のついた「柳田国男研究」の創刊は、こうした社会情勢と無縁ではないだろう。

「発刊のことば」は谷川健一、伊藤幹治、後藤総一郎、宮田登の名前が並んだ編集委員会名義で書かれていて、「柳田国男は近代日本が産んだ最大の普遍的精神である」に始まり
「七十年代の課題の一つは柳田をどのようにして越えるか」ということだ規定し、「柳田の足跡を精細に追うためということ以上に、彼がどのような問いを発したかを追求する雑
誌」だと性格づけしている。

巻頭座談会の「柳田学の形成と主題」には上記編集委員の他に橋川文三、色川大吉、川村二郎が加わって、1.柳田学の原初、2.柳田国男における常民概念、3.柳田学の検証の3テ
ーマで柳田学のアウトラインをまとめている。巻末インタビューでは柳田の弟子、岡正雄から創世期の柳田とその周辺の人や事情が語り明かされている。

季刊「柳田国男研究」は50年4月の第8号で生誕百年記念の特集を組んでいる。
中央の研究者だけでなく、地方の昔話の採集者からの寄稿も掲載しており、中身は濃い。この研究誌がこれ以降いつまで続けられたのか。

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