月守 晋

A petty talk on chocolate

■寺山修司のチョコレート体験■

■寺山修司のチョコレート体験■
1999/7/9

戦後、というのは昭和20年8月に日本の敗戦で終わった太平洋戦争後のことだけど、多くの日本人は食べ物不足に苦しんだ。
配給制度下の主食の米は遅配欠配つづきだし、副食のほうだってろくに手に入らない。日本人はみんな、一部の人を除いて、腹を空かせていた。

そのころ、東京音楽学校、いまの芸術大学作曲科の生徒だった芥川也寸志は仲間とバンドを作り、占領米軍のキャンプや宿舎で、米兵が食事をしている間のバックミュージックの演奏をして生活費を稼いでいた。
父親・龍之介の小説を出してくれる奇特な出版社もなくて、戦前のように印税をあてにするわけにはいかなくなっていたのだった。

そのアルバイトで初めて稼いだ金で、彼は有楽町のガード下の露天商人からシューマイを3個買った。
母親に食べさせようと思ったのだ。ところが家に着いてみると、新聞紙にくるんであったはずのシューマイがない。
新聞紙が破れて、駅から家までの間に落としてしまっていたのである。
彼は蝋燭を頼りに駅まで引き返し、路に落ちていた3個のシューマイをみな探し出して持ち帰り、母親に食べさせた。
「シューマイを洗って食べた母は涙を流したが、多分、うれしかったのではなく、悲しくて仕方がなかったのだろう」と『自伝抄<歌の旅>』(『音楽の旅』所収)に書いている。

そのころの子どもの楽しみは、ジープに乗ってやってくる米兵に、「ギブミー チョコレート、ギブミー ガム」とせがんで、チョコレートやガムをせしめることだった。
なにしろ、たとえ買おうとしても菓子などは何もなかったから、甘い物に飢えていた子どもは、自分で才覚を働かせて自分の口を満足させるよりなかったのだ。

青森県三沢市にも2千700名の米軍が進駐してきて、子どもたちにチューインガムやチョコレートをばらまいていた。
青森市を空襲で焼け出され、母と二人、父親の兄にあたる三沢市の伯父の食堂に引き取られていた寺山修司は、同い年の従兄弟の孝四郎に命令されて、やはり米兵のジープの周りに駆けつけていた。
ただし、駆けつけたからといって全員がチョコレートにありつけるわけではない。
競争相手を出し抜こうと思えばそれなりの工夫がいる。修司の差し出す手には米兵の気をひくための、若い女性の写真が握られていた。
孝四郎に持たされた、孝四郎の姉の写真だった。その写真が期待どおりの効果を上げたかどうかは定かではない。

それに、修司の自伝といわれる『誰か故郷を想わざる』にはまったく逆に書いてある。
青森市育ちの修司は顔色の青白い、眼の大きな、ひょろっと背の高い、運動神経の鈍い子どもだったという。
青森市育ちの都会っ子の修司は、田舎の三沢町ではいじめられっ子だったのだ。命令される側だったのである。

bittersweet ということばがある。思い出はときに甘く、ときにほろ苦い。
しかし、嘘で固めて書き換えなくてはならない恥辱の記憶を、英語では何と表現するのだろう。

 

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