月守 晋

A petty talk on chocolate

■占領史に咲いた恋■

■占領史に咲いた恋■
1999/09/03

太平洋戦争に日本が負けて、GHQ(General HeadQuarters=総司令部)による占領政治が昭和20(1945)年9月2日に発令された「連合国最高司令官総司令部布告第1号」で
始まったが、戦後の日本の基礎を作ったといわれている数々の重要な政策にかかわった人物にチャールズ・L・ケーディスというハーバードのロースクール出身の民政官がいた。

ケーディスはGHQ民政局の局長に次ぐナンバー2で、階級は大佐。
当時40歳の働きざかりで、社交好き、微笑を絶やさない、愛称のチャックで呼ばれる部下や新聞記者にも人気の、キャリア豊富な民政専門家だった。

スマートな人当たりの良さとは裏腹に、彼が実行した(ときには強行した)占領政策はM8、M9クラスの超激震だった。例えば各界の指導者の公職追放、戦前政治体制の解体、
教育改革、農地解放、財閥解体。どれをとっても、日本の将来を決定するものだったが、なかでも、新憲法の第九条、「戦争放棄」条項の起草者として知られている。

この占領政治の実力者ケーディス(GHQの事実上のナンバー3、と書いた本もある)と日本の元子爵夫人との間で恋が生まれ、占領史に一点の彩りを添えたことは、一方の側の
女性のほうが四十年近く経った昭和六十年に、自叙伝を書いて明かしている。

女性の名は鳥尾多江(本名鶴代)。旧姓は下条(げじょう)という。祖父が貴族院議員だったというが爵位はなかった。
20歳のとき22歳の子爵鳥尾敬光と結婚、一男一女をもうけた。
敬光との結婚は「貴族と結婚したかった」と書いている。敬光は四歳で子爵家の当主となったが、家政は母が執り実権は祖母が握っていた。
典型的な“若様”である。それは、住む世界が引っ繰り返った敗戦後も変わらなかったらしい。
ケーディスとの恋は、日本の政治家がGHQの高官を招待したパーティーで始まった。多江は英語が不自由なく話せたのである。

恋に陥ちたGHQの実力者は、多江に「夢中で、大切にしてくれた」という。彼は多江や多江の家族に食べさせようとKレーション、Cレーションと呼ぶ米軍の携帯食を運んでき
た。弁当箱大のボール箱に、ポークアンドビーンズとかハムアンドエッグスなどメインディッシュが詰まった缶詰、粉スープ、インスタントコーヒー、パウダーミルク、そしてデ
ザートのチョコレートが入っていた。チョコレートはハーシーのほか、固い飴をチョコレートで包みアーモンドの粉粒をまぶしたもの。丸いピンクの缶に、アーモンド・ロカと刷
り込んであったらしい。「当時はハーシーのチョコレート一箱と西陣の帯一本と交換された」とも書いてある。

ケーディスと別れた後、夫が急死した。銀座にバーも出し、“マダム鳥尾”と呼ばれるようになる。
多江とケーディスの恋は、「週刊サンケイ」がスクープして記事にした。掲載された写真は多江の家の女中を手なづけて勝手に持ち出したものだという。
(参考:『私の足音が聞こえる-マダム鳥尾の回想』文芸春秋/『日本占領-GHQ高官の証言』竹前栄治・中央公論)

 

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