2010年10月20日
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『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第九十六回 月守 晋
●首都「新京」でのくらし(1) 志津さん一家が新京に移って最初に住んだのは吉野町の祝ビルの2階であった。 吉野町は『写真集 さらば新京』(国書刊行会)の写真説明に「東京でいえば銀座通りにあたる」とある。 新京駅前の北広場から東南に向かって日本橋通りが放射状に延びており、日本橋通りに交差するように北から富士町、三笠町、吉野町、祝町と繁華街が並んでいた。 祝ビルはどうやら吉野町と祝町の接点あたりにあったらしく、志津さんたちの住居の下は靴屋だった。 斜め前に白系ロシア人(1917年のロシア革命のときに皇帝側の立場に立った人々)のパン屋があった。 店主はたいへん日本語が達者で、長男の比呂美はよく父親の大きな下駄をはいてこの店へお八つのパンを買いに行った。 ほっくりと焼けたおいしいアンパンが1個2銭だった。 ビルの裏側には共同浴場があった。 銭湯ではなくビルの住人たちが共同で運営し利用していた浴場だった。 志津さん一家がこのビルの住人になったのは、満鉄の社宅に空室がなくこのビルの何室かを社宅用に借り上げていたためだと思われる。 引揚げ時にみどり子のリュックの底に隠して持ち帰ってきた写真の中にこの祝ビルで撮った写真が1枚ある。 42mmx58mmの小さな素人写真にはビルの裏階段に並んだ大人2人と子ども2人が写っている。 右端に写っているのが「宮井」と万年筆で記名がある女性でその左隣にみどり子を抱いた志津さんと三男が並んでいる。 帽子をかぶった三男の顔は階段のコンクリートの手すりに半ば隠れている。 宮井さんはひょっとしたら同じビルに住む満鉄社員の妻女かもしれないが、いまとなっては確かめようがない。 祝ビルでくらし始めた年の夏、志津さんと下の子2人とが昼寝をしていると突然ビルの窓が薄暗くかげりにぎやかな人声がした。 おどろいてのぞいてみると、前の通りを大きな象が歩いているのだった。 派手に飾り立てられた象は興業にきた木下サーカス団の象だったのである。 にぎやかな音といえば中国人の雑技団の一行が通ったこともあった。 ピーヒャラ・ピーヒャラと笛を吹き、ジャンジャラ・ジャンジャラ・ジャンと銅鑼(どら)を鳴らしてにぎやかというよりは騒々しい鳴り物入りで進んでくる一行は移動しながら逆立ち歩きをしたり前方回転をして見せたりしていた。 その中に50センチから2メートルもある棒を足にはいて歩いている芸人がいた。 「高脚踊り」という芸人たちで旧暦の正月である春節や端午の節句などおめでたい日に通りを練り歩いた。 ピーヒャラ・ピーヒャラ ジャン・ジャラ・ジャン という歌を子どもたちはすぐおぼえたものである。 満鉄(南満州鉄道株式会社)は日露戦争終結後のポーツマス条約によって日本が獲得した東支鉄道の大連―長春間の運営を行うために設立した半官半民の国策会社であることは前に述べた(1906[明治39]年11月)。 鉄道には駅舎や線路、操車場など鉄道運営に直接関係する設備のため以外にも社員用住宅を建設する土地も含む「付属地」がついていた。 満鉄は社員用住宅地に大きな資金を投じて道路、上下水道、電気、ガス、学校、病院などコミュニティに必要な設備をととのえた。 |
食の大正、昭和史