月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第九十四回

2010年10月06日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第九十四回

月守 晋

 

●哲二の満鉄入社②

残されている「社員証明(長春地区)」によれば哲二の満鉄入社年月は昭和10年5月である。 これは敗戦後の昭和21年7月に満鉄連絡事務所長平島敏夫が発行したもので引揚げの際に長春特別市公安局が発給した「居住證」などと共に持ち帰ったものである。 この居住證にはロシア文字の併記があるので国境を侵して南下してきたソビエト軍が長春の街をまだ占拠していた時期のものだろう。

平島敏夫は38(昭和13)年1月から42年1月まで満鉄理事を務め45年6月から副総裁の地位にあった人物である。 (『満鉄四十年史』)

昭和10年5月の入社ということは志津さんが幼児2人を連れて1月末に鞍山に到着し、2月初旬に第3子を生んで満州でのくらしをスタートさせて約3か月後のことである。

渡満する前に手紙でまだ製鋼所の臨時工として働いていると知らされていて、そのとおりの哲二の稼ぎを頼りに借家ぐらしを始めた志津さんには先行きのくらしに不安を抱えながらの日々であった。

それが思いがけず予想よりずいぶん早く満鉄入社が決まったことは夫婦にはこの上ない喜びだったし、安堵の思いも大きかった。

これでやっと人並みのくらしができると思った。 志津さんは早速、神戸の養母みきに手紙で知らせたのである。

昭和10年5月という時期に哲二が採用された背景には前回に述べた満鉄の事業の拡大とそれに伴う従業員の増員という方針が有利に働いたと考えられる。

満鉄に採用された哲二はどこに配属されたのだろうか。

哲二は10代半ばから旋盤の技術を習って身につけ、結婚後も京都市電の修理工場から国有鉄道の工場で働いていた。

市電時代の先輩小山さんを頼って鞍山へ渡ったのも旋盤の技術を生かせる職場を満鉄に求めたためである。

1935(昭和10)年12月1日現在の「満鉄組織一覧表」(『満鉄四十年史』)には鉄道部の下部組織に鉄道工場(大連)が記されているが鞍山にはそれらしきものはない。

機構を改革して鉄路総局とした36年10月現在の組織表では総局の下部の工作局に鉄道工場があり所在地は大連・皇姑屯・新京・哈爾浜(ハルビン)・松浦・斉斉哈爾(チチハル)が記載されている。

新京鉄道工場は4年後に転勤になった哲二が勤めることになる工場である。

組織表に記載はないが各駅には駅員がおり機関区や検車区・工務区といった日々の列車運行の保全に携わる要員が必要だったはずで哲二は鞍山駅で機関車や車両の修理作業に当たっていたのだろう。

満鉄に入社できると生活面でも恩恵があった。

まず第一に日常の買い物に「満鉄社員消費組合」が利用できた。

消費組合は「日常生活ニ必要ナル物品ヲ購売又ハ生産シ之ニ加工シ若ハ加工セスシテ組合員ニ分配スル」ことを目的とし、加入するには一口5円の出資金を支払えばよかった。 5円の出資金も第1回目に1円を支払い残額を1年以内に払い込めばよかったのである。

分配する品目として白米、塩、砂糖、醤油、味噌、薪炭、雑穀、調味料、漬物類、缶詰類、びん詰飲料類、小間物類、雑貨類、呉服及び身回品類、その他日用品及び季節物が挙げられている。 (『満鉄社員消費組合十年史』)

本部は大連にあり大石橋、鞍山、奉天、四平街、長春、撫順など14の支部があった。

奉天の義光街にあった満鉄社宅団地は全長100メートル近い3階建ての社宅棟があり、甲・乙・丙3種の社宅棟の表通りに面した甲1号棟の中央通路寄りに購売組合の店舗がありその2・3階が高級社員の社宅になっていたと『少年の曠野』にある。

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