2009年09月02日
|
『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第四十回 月守 晋
●行儀見習の奉公(2) 名傍役として人気のあった俳優花沢徳衛は小学校5年生の11歳で指物師に徒弟奉公に入り、親方の家の雑用から材料運び、道具の手入れと何でもやって夜は仕事場の板の間にござを敷き、10歳の子守とふとんを並べて眠ったと自伝『芝居は無学の耳学問』(近代文芸社)に書いている。 昭和初期まで、小学校を終えぬ女の子が家の事情で子守や女中奉公に出される例は少なくはなかった。 宮城県登米の大工の娘に生まれた早園さつよは小学3年の秋、9歳で大百姓の家に子守に出された。その家には先妻の遺児の2人の男の子と後妻が生んだ2か月ほどになる女児がいて、さつよはこの赤ん坊の子守にやとわれた、といっても給金はない。さつよの表現によれば、「娘同様に扱うから子守に貸して」くれと頼まれて貸されたのである。「貸す」と言えば体裁がいいがそれは「扶持(ふち)抜け」、つまりさつよの食い扶持を1人分抜き家の負担を軽くするためだった。 さつよはこの家で、母乳代りに生米をすり鉢ですり、その米粉を炊いて重湯を作って飲ませ、寒中に背中を赤ん坊に濡らされた着物で昼夜を過ごす。 約束では給金がない代りに袷(あわせ)に襦袢(じゅばん)、羽織をそろえて(これを「一通り(ひととおり)」といった)1年に一通りずつ着せてもらえることになっていたが、14、5歳でやめるときにもらえたのは安物の反物でぬった脛(すね)の長さしかない着物だった。 さつよはその後も年7円の前借で子守に出され、16歳で岡谷の製糸工場の女工になる(これも30円の前借だった)。子守先の食事は大根と麦のカテ飯(混ぜ飯)にお菜が菜っ葉漬けで量をふやした自家製納豆、たまに貧弱な塩引(塩ザケ)がついた。(『さつよ媼(おばば)おらの一生、貧乏と辛抱』石川純子著/草思社) これまでに何回か引用させていただいた松田道雄『明治大正 京都追憶』(岩波書店)には著者の母親の弟が小学校を卒業すると同時に名古屋の陶器会社に就職し、9か月は耐えたものの「骨と皮だけになって京都に逃げてきた」ことが書かれている。 その会社では1日2食で睡眠時間も5、6時間しかなく、休日もなかったという。 第12回に志津さんが養母のマッチ箱貼りの内職を手伝ったという話を書いた折、大正5年8月に農商務省が「十歳以上十二歳未満ノ者ノ就業ヲ許可スル場合ノ取扱方」を訓令第10号として通達し、第1条で許可される「簡易ナル業務ノ範囲」を第3条で「就労時間」についても規定し、「1日の就業時間は6時間を超えてはならない」ことや「毎月4回の休日を設けること」などを定めていることを述べた。 松田さんの叔父さんは明治42年に小学校を14歳で卒業したというから、この法律が成立する前の事例だが花沢徳衛は志津さんと同年の明治44年生まれ、早園さつよは明治43年生まれの1歳違い。 りっぱな法律があっても、世の中にはその法律では保護されない少年少女たちが多勢いたということである。 さて、志津さんの「奉公」ばなしにもどろう。 「行儀見習」というのは、中級程度レベルあたりの家庭で、さらに上級レベルの家に娘を嫁がせたいと願う親達にとられた方法で、行儀見習に出す先は身分家柄・社会的地位が「あの家ならば」と世間に認められている家が選ばれる。 養母みきが急に志津さんを「行儀見習」に出すと決めたのはひょっとすると、また引き取りに来るかもしれない大垣静夫に志津さんを会わせないようにするためだったかもしれない。 |
食の大正、昭和史