2008年12月24日
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食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年— 第十二回 月守 晋 大正6年に数え年7歳で小学校に上がった志津さんは朝、学校へ行く前と学校から帰ってからと養母がやっていた内職を手伝った。 内職はマッチの箱貼りであった。 日本でのマッチ製造は元加賀藩士清水誠が明治7年にパリから技術を持ち帰ったのが最初だという。清水は明治3(1870)年、藩の留学生としてパリに渡り、パリの工芸大学で造船学を学んでいたが、4年の廃藩置県以後は文部省の留学生という身分で学業を続けていた。しかし、7年春に留学生制度そのものが廃絶されてしまう。清水の苦境を救ったのはフランス政府で、彼を金星観測補助員として雇ってくれたのである。 同じ年、清水はヨーロッパ漫遊中の宮内次官吉井友実(ともざね)と出会う。談話中、吉井は日本の対外貿易が巨額の赤字になっていることを憂え、机の上のマッチ箱を指差して「せめてこれくらいは輸入に頼らないでもすむようにできないものか」と嘆いた。清水はかねて製造工業に興味をもっていたので、「帰国後には私が工場を起こしましょう」と応じたのである。 同年10月、フランスから同国の金星研究員を伴って帰国した清水は12月に神戸諏訪山での金星観測に同行、フランス政府への恩義を果たした。 吉井との約束を果たしたのは翌8年で、東京三田四国町の吉井別邸に仮工場を建て、日光のポプラ樹を軸材に選びマッチ製造を開始する。さらに9年9月、本所柳原に本工場を建設し「新燧社(しんすいしゃ)」と名づけ、自身は海軍を退官して本格的にマッチ製造に乗り出すのである。新工場には旧士族の婦女子を多数雇用したので、困窮士族の救済にもなると新政府から感謝されたという。新燧社が製造したのは発火点の低い黄燐(りん)マッチであった。 神戸では明治10年に刑務所(当時は監獄と言った)で製造を始めたのが最初で、民間では12年に本多義知が明治社を湊町(現兵庫区)に、13年6月に滝川弁三が同じ湊町に「清燧社」を起こしている。 これ以後、神戸市を中心として兵庫県のマッチ製造額は増大の一途をたどる。明治30年には全国比率の53.9%大正元年には65.4%を占めるまでに発展した(大正8年、神戸市単独の生産額は全国生産額の52.5%)。神戸市の工場が製造したのは「安全マッチ」が主力で、兵庫に次ぐマッチ生産地大阪府では黄燐マッチが多かった。黄燐には人体に害を及ぼす有毒物が含まれているので、大正8年 吉井の嘆きは明治15年ごろには早くも解消され、マッチは明治・大正期を通じて日本の主要輸出品の1つに成長した。 マッチ製造業で問題になっていたのは、大人の職工に混じって大勢の子どもが働いていたことだった。 神戸の場合、大正元年の統計で5553人の女子労働者のうち15歳以下が29.1%にもなる。 14 – 15歳 944人 17% また男子は総数1698人のうち22.1%が15歳以下だった。 14 – 15歳 253人 14.9% 未成年者の就労を政府がただ傍観していたわけではない。大正5年8月3日、農商務省は東京府を除く庁府県に「十歳以上十二歳未満ノ者ノ就業を許可スル場合ノ取扱方」を訓令第10号として通達している。それによると 第1条 「簡易ナル業務ノ範囲」として ①菓子、巻煙草、黄燐マッチ、ブラシ、ボタンの各工場では箱詰め、綴付け、包装、ラベル貼り ②紙箱、マッチ箱製造では箱貼り などと具体的に指示している(???略)。 また第3条で就労時間についても ①1日の就業時間は6時間を超えてはならない。 ②1日の就業時間が3時間を超える時は30分以上の休憩時間を設けること。 ③毎月4回以上の休日を設けること。 この通達がどれほど遵守されたかは定かではない。大正元年当時、年少者の賃銀は出来高払いが普通で、子どもたちは多く稼ごうと思えば就労時間や休憩を無視せざるを得なかったのであり、生産量が急増する3?8年間に、どれだけ改善されたかもわからない。 ともあれ、日本の(神戸の)マッチ製造業は工場で働く労働者(工場法の適用を受けられる)と工場周辺に住む内職家庭がそれぞれほぼ50%ずつを分担することによって成立していたのである。 《参考》 『神戸市史Ⅱ 第2次産業』 |
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