月守 晋(つきもり・しん)/本名:増永豪男(ひでお)ヒストリー
略歴
昭和10(1935)年2月、旧満州国鞍山市で生まれ、日本敗戦の翌昭和21年10月に父の故郷広島県甲田町(現安芸高田市)に引き上げるまで新京市(現長春)西広場露月町3丁目66の2の満鉄社宅で育った。
入学した小学校は西広場在満国民学校。入学式の記念写真に白系ロシア人の女の子が写っている。1年生の時の担任は松村先生。長髪に眼鏡の優しい男性教師だったが、2年生の時には他の教師に替わっていた。
昭和20年、太平洋戦争で日本が敗戦。翌昭和21年9月に日本に引揚げ、広島県に住むことになる。
新京での学校生活は楽しいものではなかった。学校が嫌いだった。しかし戦時中の小国民教育という圧力の下、モールス信号とか、色彩の明度・彩度、加えて剣道といった少年兵的な教育を受けた。
引揚船として使われていた、米軍の上陸用舟艇に乗せられ佐世保に入港した。日本の自然は満州のそれとは全く違うことを知った。
佐世保から鉄道に乗り、夜中に広島駅に着いた。被爆直後の広島市はただ一望の闇の中で、所どころにポツンポツンと灯が見えていた。ここが広島だとわからないまま動き出した列車から、広島と知った父親があわてて跳び降り、家族も従った。
構内に停め置かれていた客車で一夜を明かし、芸備線の始発に乗った。車内で妹が前の席に乗ってきた老婆から握り飯を一つもらった。真っ白な握り飯だった。
伯父を頼っての生活が始まり、初めは同居していたのだが半年ほどで別居する。母親と兄嫁の間の不仲のためだ。母親は神戸生まれの都会ぐらし、義伯母は農家生まれの農家育ち。身につけた“文化”が全く違っていた。
父親は伯父の仕事を手伝い始めた。焼土復興のためには建築資材が不可欠だったから、事業は順調に伸び、昭和29年に私を大学進学のため上京させ、32年には一人娘も上京させ大学に入れることができた。
以下、豪男の履歴を編年式に。
–昭和26年 県立三次高等学校商業科に入学。
大学には進学できないと考え、就職する途を選んだ。同級の友人に英語の勉強法を教えられ、夏休み中に中学英語を習得できた。
–昭和27年 県立向原高等学校普通科に編入学。
父の仕事が軌道に乗り、学資を出してもらえることになった。「財産分けの代わりに」が父親の弁。
–昭和29年 向原高校を卒業。早稲田大学、慶応義塾大学の入試に失敗。
入試の時に頼ったテニス部の先輩の下宿先で、広島大学付属高校生の小野和彦と知友になる。小野の実家は向原町にあり、隣接する崖上に高校があった。小野家は県内有数の材木商であり、現在も繁栄の途にある。(残念ながら小野は2021年1月に病死した)
–昭和29~30年 杉並区下高井戸で下宿、浪人生活を送る。ここで小野の同級生で庄原市出身の武田祐三とも交友。
武田は早稲田の大学院日本史修士課程を修了、三次市・庄原市で教職についたが郷土史関連の著作が多く、平成23年に地域文化功労者文部科学大臣賞を受賞している。この賞は文化勲章に比肩するものだろう。
–昭和30~34年 早稲田大学教育学部英語英文科に在学。
同級生に富永勸。富永は自家製品のチョコレートを売って学資を稼いでいた。月守の賃貸アパートで、一組しかない煎餅ぶとんに二人もぐり込んで眠ったこともあった。
後年富永の経営するベルジャンチョコレート・ジャパンのホームページに連載したのが「食の大正・昭和史―志津さんのくらし80年」(全106回)、「チョコレート人間劇場」である。
–昭和34年~ 9月に学研(学習研究社)入社。出版部に配属。
俳人として高名な宗田安正氏、児童文学者三田村信行氏と机を並べて編集業務に携わる。37年雑誌編集部に転属。「中学1年コース」副編集長。編集長だった武内孝夫と後年『帝国ホテル百年史』を書く。
–昭和39年 2月学研退社。3月鹿島建設の子会社鹿島出版会に入社。
「日本の美術」シリーズを担当、その中に若杉慧『日本の石佛』があり、その後会社勤めをやめるまで教えを受けた。
経済・経営部門も担当。経済同友会での講演をまとめた『高度工業化社会』、『明日の経営』(前7巻)がある。
–昭和40年 11月21日武川檀と結婚。
八丈島へ新婚旅行。島には学研で同僚だった寺沢史夫妻が中学校教師をしていた。
–昭和43年 3月鹿島出版会を退社、4月リーダーズ・ダイジェスト社日本支社に入社、元学研の同僚生木茂美氏の誘いによる。
出版編集部所属。一般人を読者対象とした翻訳出版に携わる。常盤新平訳の『マフィア』は10万部を超すベストセラーに。
同僚に中国近現代史研究家の鈴木博氏がいて多くのことを教えられた。多数の翻訳出版があるが『蔣介石書簡集』(全3巻・みすず書房刊)は貴重な現代史資料であろう。
–昭和49年 12月ダイジェスト社を退社。
–昭和50年 3月、シカゴに本社を持つフィールド・エンタプライズ・エデュケーショナル・コーポレーション日本支社に入社。
支社長の戸田氏は大学・学研の先輩だった。
日本語版『チャイルドクラフト』(全15巻)を編集、51年に刊行。サンケイ新聞社の児童図書出版賞を受賞。
–昭和56年 8月フィールド社を退社。
フィールド社に入社した50年5月、初めてハワイに渡りシカゴ本社の編集局長以下文章担当編集者、写真・絵画担当アート・ディレクター、造本担当部員と会議をもった。その後日本支社は新宿三井ビル5階のフロアーに入り実務を開始した。
編集実務担当は私1人。アート担当者、印刷造本担当各1人。編集実務補助に元学研の編集者だった女性3名。翻訳・原稿入れ・校正などの実務は各巻1名ずつ社外のフリーランスの編集者に依託。予算は雑費まで含めて総額1億9,400万円。実際には200万円余り、収載した絵画を購入した。
昭和51年10月1日、シカゴ本社で会議中に長男誕生の電報が日本から届いた。
会議を終え、私はテネシー州のキングスポートという町に向かった。世界一大規模の印刷会社があり会社の名が町の名であり住民のほとんどが会社の関係者とその家族という町であった。
2週間モーテルに泊まり込み、写真印刷の最終校正を終えた。印刷会社側の担当者の一人がシェリフ(郡保安官)で、懐から拳銃を取り出して持たせてくれた。
シカゴ本社に戻り、編集担当の副社長に面会後、シカゴを離れニューヨーク、サンフランシスコを経由して帰国した。およそ2ヶ月の米国生活だった。
昭和52年3月から日本語版『チャイルドクラフト』の販売が始まったが、受験に直接効果が望めないため、初版2万セットを2年後にも完売できなかった。セールスマンによる直接訪問販売だった。
売れる出版物がなければ会社は存在できない。ダイジェスト社で経験のある翻訳書籍の出版、当時人気のあったアメリカの雑誌「ナショナル・ジェオグラフィー」の日本語版出版の交渉のために支社長とワシントンまで出かけたが、発行元には外国語版出版の意志が全く無かった。翻訳書籍の出版は街の本屋さんで本を売った経験のない本社の同意が得られなかった。
仕事が無ければ退社するしかなく、昭和55年6月に退社。45歳になっていた。
学生時代は新宿西大久保に住んだ。大家さんは福岡出身、奥さんとその母親、兄夫婦が広島出身で、母親は私の出身高校のある向原町の生まれ。満鉄関係の事業主と結婚し大連などにもすんでいたという二重に縁のある一家だった。この一家とは現在も縁が続いている。
結婚後は千葉県習志野市、神奈川県逗子市、茅ケ崎市と移り住んだ。新宿から習志野市に移り住んだ42年11月長女が生まれた。6年後、逗子市の中古住宅を買い取り転居、平成18(2006)年9月に茅ケ崎市の現住所にうつるまで39年間住んだ。
逗子での隣人に1年間だけだったが日本近世絵画史で著名な辻惟雄先生(著書に『奇想の系譜』『日本美術の表現』など)ご一家がおられ、2軒隣りに佐藤静夫・洋子夫妻がおられた。共に科学者であり(静夫氏は理学博士)共に著作がある。洋子氏は2020年に『「地震占い」を解く』(高文研)を出された。
私は76歳の秋に大腸と膀胱のガンを患ったが、その際にもご夫妻から医学的な援助を受けた。
45歳で会社勤めをやめてフリーランスの編集者・ライター・翻訳家として生計をたて、現在に至っている。翻訳などの仕事は30歳の頃から始めていたが、その頃のものも含めて以下に列記する。
*著書・翻訳本はこちらにも掲載
1974年 『マックQ』立風書房
1982年 『89パーセント大作戦』上下 講談社文庫
1983年 『会長命令』立風書房
『暗号はマルコポーロ』講談社文庫
1985年 『コングロマリット誘拐事件』講談社文庫
1987年 『エクササイズ・ウォーキング』講談社文庫
1998年 『フランス人』カルチャーショックシリーズ①,河出書房新社
③『タイ人』、④『インドネシア人』、⑤『マレーシア人』、⑦『ベトナム人』
共訳 武内孝夫 + 月守晋
『将軍の裁判―マッカーサーの復讐―』立風書房(本書は京都大学教養部「政法論集」〔1985年第5号〕に紹介された。)
著書 『昭和の女性一日一史』岩波書店(同時代ライブラリー)1996年
『今日の出来事100年』展望社2001年(にんげん史研究会名儀)
『帝国ホテル百年史 1890-1990』(武内孝夫が前半、後半を月守が担当)1990年
同じ時期に元学研時代の同僚6名と「ブックマンズ・ユニオン」を結成、企画・編集実務・製作の下請会社だが実務は個人がそれぞれの縁を頼りにそれぞれの仕事をしていた。相手出版社にも信頼度が高いだろうという魂胆。社長には志水辰夫をたてた。
志水辰夫は本名川村光暁、学研コース編集部のライターをしていた頃以来の付き合い。『飢えて狼』(講談社/56年)でデビュー、第二作『裂けて海峡』(講談社/58年)は朝日新聞が絶賛した冒険小説。短編集『きのうの空』(新潮社/平成13年)で第14回柴田錬三郎賞を受賞する。平成三十年頃から時代小説を書き、『新蔵唐行き』(双葉社)は82歳の書下ろしである。
講談社の翻訳仕事は文庫出版編集部に高校の同級生白川充がいたおかげである。白川とは彼が2019年に急死するまで58年の付き合いだった。編集という同じ仕事の仲間でもあった。彼の死によって喪失したものは大きい。
白川は平成25年5月から1年間をかけて、『7人の作家』と題する豆本を作った(本人を題材にした1巻を加え全8巻)。
私は句会「あしかび」の会員である。会員だった武内孝夫が誘ってくれた。その2年前から、武内に教えられて歌仙、半歌仙を巻いていた。郵便でのやりとりだったから半歌仙「菜の花や」に2004年1月~5月、同「絮たんぽぽ」は同年12月までかかり、歌仙「ほとほとと」には2005年1月19日から11月25日までかかった。しかしお陰で俳句の基本が理解できた。
10数年経ち、会を立ち上げた先輩たちがこの世を去った。特に同じ市の住人だった太田明人氏の死は痛恨事だった。月に3度、4度とコーヒー店で会い雑談を楽しんでいた。太田氏も早大文学部の日本史の卒業生で、学研の小学生雑誌の編集者だった。
1988年、退職後初めて海外旅行。行き先は台湾。『封神演義』の出版で時の人だった安能務(あのう・つとむ)さんの随伴。費用は全て安能さん持ち。高校の同級生白川充が版元講談社の担当編集者だったという縁だが、その数年前から年2回、会食して談笑という機会を作ってもらっていたのである。
94年には上海・北京への取材旅行にお伴した。中国には「帮(ぱん)」という秘密結社(青帮、紅帮など)があるが、その実態調査だった。
他に『春秋戦国志(全3巻)』
『中華帝国志(全3巻)』
『始皇帝』
『韓非子(上下)』
など著書、訳書多数。
2000年4月逝去。75歳。台湾生まれで本名は閑文介。香港大学卒。