老残日々録・続
【1】
改修工事のために一年間閉所していたリハビリ施設が再開したので、また通っている。施設は今住んでいるマンションの山側3キロほどの台地にあり、外廊下に出ると工事の進捗具合が目に見えていた。
小学校の講堂ほどの広さの施設には、私は週一回午後一時~四時までのリハビリに通っているのだが、この曜日のデイサービスに10人ほど、午後のリハビリには最多で6人が利用している。
6人のなかで男は私一人である。しかし、女性たちはみな優しく、みんなが話相手になってくれる。一人ぐらしなので、夜、きまった時間に電話をかけてくる娘とおしゃべりをするしか、他人との会話の機会のない身にとっては、週一回のこの日は貴重な半日になっている。それに、コロナ禍のいま、唯一の外出の機会でもあるのだ。
【2】
平成十七年から仲間に加えてもらっている句会があるのだが、先日連絡があって、句会を三月で散会したいという。理由をきくと、主宰が自転車に乗っていて転び、頸骨を痛め治療に時間がかかる、という。
「手術はしないで、漢方薬を飲んで、時間をかけて治すらしいです」
老年者が転ぶと、骨折したりひびが入ったり、思いがけない重傷を負うことが多いようだ。骨密度が落ち、もろくなっているらしいから、それだけ重傷度は高くなるという。
句会は、コロナ禍のためこの三年間休会したままである。コロナは今年も変異して、一向におさまる気配はない。
三月にはおさまっているだろう、という希望は失望に終わりそうな気配である。
三月に散会のための最後の句会を開き、顔を合わせられるか、はなはだ心もとない。
【3】
夕方になると、躰じゅうが痛む。
首が痛い、肩が痛い、肘が痛む、腰もずきずきする。膝がしびれているし、足首もうずく。
リハビリに行くと、理学療法士の施術が受けられる。マットのベッドで施術を受けるとその後三日ほどは膝や足首のしびれがゆるみ痛みも軽くなる。
痛みやしびれが全く無くなることはないので、毎晩寝る前には首と膝にクリニックで処方してもらった貼布剤や市販の液薬などを使っている。
子供たち二人がお金を出し合って、負荷のかかる自転車のペダルのような運動器具を買ってくれた。杖をついて外を歩き回るよりも一日2回、一回には100歩こぐことを続ければ脚力をなんとか保たせそうである。だが、なかなか続けられないでいるのだ。
【4】
もう半世紀ほども昔のことだが、アメリカ・シカゴに本社のある出版社の日本支社の編集者をしていたことがある。
編集会議に呼ばれてシカゴに滞在していると、夜は市中で人気のレストランに連れていかれることがよくあった。
そのうちの一軒がワイルド・ゲイムを提供してくれるレストランで、私はこの店で生まれて初めてムース(アメリカ・ヘラジカ)とバッファロー(野性牛)のステーキを喰べた。
味はどうだったか、というと味わうまでもなく、その臭気にへこたれてほとんど食べられなかった。
せめてもの記念にと、その店(カフェ・ボヘミア)の料理表をもらってきたのだが、私が喰べたステーキはそれぞれ10.95ドルだった。熊のステーキ、アンテロープのステーキも同じ値段である。
【5】
かつて東京東銀座に「銀座内科」という診療所があった。ドクターは藤井尚治といい、敗戦後の昭和二十年代にラジオ・ドクターとして著名だった。
友人の武内孝夫に教えられて、藤井ドクターを訪ねるようになったのは、私が三十代の後半に入った頃で、週に一度は会社を抜け出して会いに行った。診療所では同業の他社の編集者や新聞記者と顔を会わせることがしばしばだった。
ドクターは「Stress」と筆書きした大きな額を背にして座り、我々の体調不良の訴えを聞きあれこれと忠告し、時に薬剤を処方してくれ最後には「仕事をやめてしまえば完全に治るけどね」と言った。
増田ユリヤ著『カタリン・カリコ』にハンズ・セリエ博士の名が出てくる。藤井さんが背にしていた額の筆者はセリエ博士だった。
【6】
アメリカ・シカゴ市の別線は”ウィンディ・シティ”である。ミシガン湖の南岸にあってその影響を受けるのだろう。しかし湖畔は青々とした芝生と雑木が明るく伸びる気持ちいい散歩道である。この道を東の方向に進むと「インスティテュート・オブ・アート」があり「自然史博物館」がある。
シカゴには全米第二の老舗百貨店があり、「アート・インスティテュート」と「自然史博物館」もこの百貨店オーナー家の寄贈による資金で設立された。
初めて自然史博物館に入ってみたとき、マウンテン・ゴリラの剥製が10頭も並んでいてびっくりした。もっとも翌年には姿を消していた。一九七〇年代後半のことだから、この頃から野生動物の保護、育成が国際的な命題になりはじめたとおぼしい。当時の私はこの百貨店が親会社の出版社の日本支社で編集者だった。
【7】
リハビリ施設には様々な器具・道具が用意されている。施設の利用者はそれらを補助に使い、自分に必要な運動をする。
私の場合は、準備体操の後。足首を動かすために30センチ四角の滑車板をはき、次に同じ大きさの跳ね板をはく。次にバレーボール大のゴムまりを股にはさみ、ついで3センチ幅のゴム紐で太股を締め筋肉の強化をはかる。次いで足首に1キロ半の重りをつけて膝を上下させて膝と足首の強化。膝と足首がしっかりしていれば、長い距離を歩くことができる。
コロナ禍のために街に出歩かなくなったらとたんに脚力が落ちた。3キロほど歩いて駅ビルの商店をのぞいたり、本屋や古本屋の棚をのぞくこともなくなっていた。
しかし近頃、市内の感染者が一ケタに落ちてきた。家内が残していった杖をついて、また古本の棚をのぞきにいけるかもしれない。
【8】
中国山脈の根元の高原に古い友人が住んでいる。地方史の研究家で二〇一一年に「地域文化功労者文部科学大臣賞」を受賞した。
その友人が『庄原英学校ものがたりー中国山地の慶応義塾分校』という新著を送ってくれた。
タイトル通り、中国山地の小村。庄原町(現在は市)へ慶応義塾の派遣した英語教師の活動によって、明治十~二十年代に英語習得の一大ブームが起こり、大勢の塾生が出たという。
広島・浅野42万6千石の藩領だったが、幕政時代に武士が定住したことはなかったらしい。
自作農や地主が藩統治の影響をさほど受けることなく、自分たちの判断と意欲を行動に移す、という地域経営の自治意識の現れでもあったろうか。友人の名は武田祐之さん。