【希有な女性たち】(3)■日本で最初の女子美術留学生■
1999/10/22
明治十三(1880)年、というから今から119年前だ。この年の十二月十二日、横浜港を出航した外国船籍の汽船、といっても貨客船に一人の日本人女性が乗り込んでいた。
女性の名前は山下りん。安政四(1857)年の生まれというからこの年まだ二十三歳。
行き先は帝政ロシアの首都ペテルブルク。
りんの乗った船が黒海に面した目的港のオデッサに入ったのは翌年の一月三十日である。ちょうど五十日の船旅だ。
横浜を出てからの航路は東京湾から太平洋に出て、一路南下して香港に向かい、香港からはヴェトナムの沿岸ぞいにサイゴン、シンガポール、マラッカ海峡を抜けてセイロン、現在のスリランカ東岸に達し、そこから西岸のコロンボ、アラビア海を渡ってアデンに入る。アデンからは紅海を北上し、1869年に開通したスエズ運河から地中海に入り、アレクサンドリアからトルコ西岸のイズミル、ダーダネルス海峡を
抜けて黒海である。
りんを連れていってくれたのは東京のロシア正教会で聖歌を教えていたアナトリーという教師で、彼には懐妊中の日本人女性の妻と二人の子どもがあり、四歳になるその長男は精
神障害児だった。りんはこの子の世話係だったのである。船室はもらえず、食事も上等船客の残り物を厨房の前で人夫や黒人に混じって食べるという待遇だった。
りんは焼き物で知られる茨城県・笠間の元下級武士の娘である。八歳のとき父を失い、十二歳で明治維新に遭遇し、母子四人の貧窮暮らしの中、明治五年の十五歳のとき東京へ家
出を敢行した。絵を学びたかったのはもちろん絵が好きだったこともあるが、おとなしくしていると、農家へ嫁にやられそうだったからでもある。生活苦にあえぐ元下級武士の家
庭では当時、そういう方法で口減らしをしたものらしい。
そんな危機(?)を乗り越えてりんは十六歳のおり、母親と兄を説得して上京、絵の修行を始めた。最初は浮世絵の師匠についたが、明治十年、前年十一月六日に開校したばかり
の工部美術学校に入校を許可された。工部美術学校ではフォンタネージ、ラグーザ、カッペレッティのイタリア人三教師によって近代西洋美術の教育が始まっていた。りんは新聞
などで開校のことを知ったのだろう。美術学校はわざわざ校則を変更して女子学生の入学を認めたのである。
りんと同時に入学を許可された女子学生は六名、その中には工学頭大鳥圭介の娘雛子、詩人川路柳虹の母花子、日本で最初の女性石版画家・山室政子らがいた。月謝の二円は旧藩
主牧野家が出してくれた。大工の手間賃が一日五十銭の時代の二円は大金である。
明治十一年七月に行われた試験では、画学科で一番が小山正太郎、五番が浅井忠、女子ではりんの十番が最高であった。念願を叶えられたりんは、月謝を出してくれる藩主家や、
上京して巡査をしながら生活費を援助してくれていた兄の恩義に報いるためにもがんばったのだ。
ところが、フォンタネージが健康を害して十一年十月に日本を去ってしまい、その後任としてやってきたフェレッティという男が、肝心の画技のほうがりんの表現を借りれば「言
語にかからぬ大ヘタ」で、おまけに性格のほうもどうやらゴロツキなみだったらしい。十一月には浅井忠らおもだった男子学生十一人が抗議退学してしまった。りんは「こころな
らずも」出校していたが、フェレッティの後に来朝した教師にも不満で、ついに十三年十月に美術学校を退学してしまう。そしてわずか二月足らずの時をおいて、ロシアへ旅立つ
のである。(この項つづく)