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初めての海外旅行(5)

投稿日: 2008年7月13日

初めての海外旅行(5)

1965年6月5日、最終便でミラノからウィーンへ。ウィーンには「大黒」、「阿弥陀」の2大碁会
所があり、日本棋院の有段者のニンマーリヒター(元、オリンピック陸上競技選手、当時、新聞記者)、
その友人、ホスト・ミュラーが待っていた。ニンマーリヒターの運転する車で土砂降りのなか、ホテ
ルに直行しチェックイン。翌日は日曜日。8時半からシェーンブルン宮殿に行き、英語のガイドの後
について広大な宮殿と庭を見て歩いた。モーツアルトがマリア・テレジア の前で演奏したこと、
マリー・アントワネットがフランスのルイ16世に嫁ぎ、フランス革命のときギロチンの露と消えた
こと、等々、歴史で学んだことを聞くと当時の絢爛たる場面や歴史の転換点を想像して胸が踊った。

翌6月7日はホルスト・ミュラーが終日つきあってくれた。25歳。専門学校のホテル科卒。20歳
の時、1年の兵役をすませ、多くのホテルに勤めた。ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン
語が堪能。日本語もかなり正確に話す。デーメルを訪れザッハトルテやプラリネを味わった。お昼は
ドナウトゥラムに招待してくれシャトーブリアンの豪勢な味を知る。なぜ彼らが私を歓迎してくれた
か。それは私が碁石、二組を持って行ったからである。大阪青年会議所の友人、朝日徹夫の依頼であ
った。彼はドイツ語にたけ、日本棋院を通じて彼らと知りあった。碁会所「阿弥陀」で碁を打った。

私が井目(九子)を置いてもとても相手なる相手ではない。ホスト・ミュラーは2年半、日本にいて
国際中央会館で国際版「囲碁雑誌」の編集をしていたらしい。その間日本棋院で修業して四段になった。
囲碁仲間の日本女性と婚約していると聞かされ、そんなプロと素人の私が碁を打ったことを恥ず
かしく思った。

ひとしきり、ホスト・ミュラーの日本観を聞かされた。日本でなにか仕事をしようと思うと電話一本で
済ませられないこと。それで面談すると肝心な商談にだけ集中せず、関係ないことをあれこれ聞かれ、
あげくの果ては、お茶に行きましょうとか、今度ゴルフにどうですかとか誘われたりして、自分の仕事
が捗らないこと夥しかったとこぼした。仕事をするには頑健なからだと、プロフェッショナルな仕事が
できれば何の問題もなく、どこでも、いつでも、仕事には困らないという彼の自信と流儀を持っていた。
啓発された一日であった。

(1965年当時、航空会社の携行品の重量制限は厳重を極めていた。そこで一計を案じバカでかいポケッ
トをつけた、トレンチコートを誂えた。左右の裏ポケットに碁石を1組ずついれ、何食わぬ顔で日本、
フランス、イタリアの空港を咎められることもなく搭乗手続きをすませることができた。まだまだ日本か
らの訪問者は少なかった時代である。持ち出し外貨が600ドル。伊丹、羽田、アンカレッジ経由、パリの
オルリー空港まで20時間以上かかった。)

6月8日、ニンマー リヒターがホテルまで迎えにきてくれ、ユリウス・マインル(Julius Meinl)へ直行
して工場見学。お昼は自宅で夫人手作りの昼食をよばれ、午後は夫人がヘラー(Heller)の工場見学に
つきあってくれた。

ユリウス・マインル(Julius Meinl)は、シュミット(Schmidt)、ホフバウアー(Hofbauer)と並ぶチョコレートメーカー(モーツアルト・クーゲルン)である。本業はコーヒーの焙煎業者で、喫茶店向け
の業務用製品の加工卸である。20分で200キロを焙煎するロースターが24時間、休みなく稼働している。
包装は500グラムの袋詰め。最初から包装仕上げまで、一貫してIBMで制御されたフルオートメーショ
ン工場であった。欧州における業務用コーヒーの60%を生産しているという。コーヒーに関連して、
ココアパウダーの袋詰めと紅茶のティーバッグ加工も行っており(それぞれ別棟の加工場)それも見学
した。コーヒー部門と違って手作業が多く、能率が悪いのでオートメ化することを検討中とのことであ
った。これらの工場に加えてスピリッツの蒸留酒製造工場もあった。
チョコレートの工場は喫茶店向け業務用製品の工場と比べるに中規模程度のものである。しかしながら、
ビュラー、バイエルマイシュターの機械群を設置して一次加工から生産していた。二次加工はカルレ・
エ・モンタナーリのライン、ゾリッヒのエンロバーライン、包装機はサパルと機械の見本市が出来るほ
どの設備をもっていた。板チョコやモーツアルト・クーゲルンの製造工程はどこでも同じ大量生産の工
業製品である。

しかし、種なしマラスキーノ・チェリー(チェリー・リキュール・ボンボン)ラインはすべて熟練女子
工員の手作業で製品化していた。チェリーは種を抜いたものをコニャックとともに木樽に1年漬けこん
だものである。まずチェリーを樽から出して1粒ずつ金網底のトレーに並べ、表面のコニャックを乾か
す。フォンダントクリームを厚くかけて、また、乾燥するまで待つ。乾燥したら1個ずつ流動性の低い
チョコレートでプレボトミングして、チョコレートが固まるのを待つ。固まったら1個ずつ手がけでチ
ョコレートをエンローブ(被覆)する。フェレロの工業製品、モンシェリとはまったく異なる、文字通
りのハンドメードである。

このユリウス・マインルは鉄道の引込み線が2本も入っている結構大きい工場である。コーヒー焙煎業
ではヨーロッパ屈指ということは先に述べた。チョコレートも一次加工から生産するという規模のメー
カーが、このようなハンドメードの製品をもつことに衝撃を受けた。日本では考えられない。本当の味
を追求すれば上述したような手作業の工程以外では得ることはできない。ユリウス・マインルはすでに
チョコレート部門を売却したようである。何時整理したか不明である。
ニンマーリヒターの自宅でランチを取った後、午後3時、彼の夫人の案内でヘラー(Heller)の工場見
学に行った。ここはモールドレス・モールド・プラント(Mouldless Mould Plant)を発明して特許を
とったチョコレートメーカーであった。日本では京都のナガサキヤと明治製菓がこれに飛びついた。ナ
ガサキヤは「ピカリコ」という商品名(三木鶏郎の命名)をつけて、すでに日本で販売していた。しか
し機械は精巧なものではなくアルミフォイルで凹凸をつけて凹部分にチョコレートを流し込み凸部分の
上にアルミフォイルを置くと同時に外周部分を切り落とし、外周部分を嵌合するものであった。しかし実
際にはタイミング合わせが難しくアルミフォイルのロスが山のようにできる。
本家本元のヘラーの工場でも部屋がロスになったアルミフォイルで埋まっていた。クリスマスツリーに
吊り下げるオーナメントボールや、アルミフォイルを星形や円形に切り抜いたものにクリーム玉チョコ
を貼り付け、吊りひもをつけたクリスマスシーズン向けの製品を大量生産していた。そのような中で得
た経験からモールドレス・モールドのアイディアが湧いたのであろう。
ここまで書いて気がつけば私が訪れた会社の多くが今はない。パリで最後の日に見たショコラコンティ
ネンターレ、イタリアのモッタ、アレマーニャ、デンマークのミケルセン、スイスのハルバ、カルマ、
ドイツのPEA、カイゼルカッフェ等は、多国籍企業か、競争企業のいずれかに吸収合併された。
ヘラーは数年前のISM―国際菓子専門見本市(ケルンメッセ)にネスレ傘下企業の一つとして出展して
いた。

ウイン エピローグ

デーメルのカフェで。年代物のナショナル金銭登録機(キャッシュレジスターのこと)を前にして、女
将は言った。うちで顧客と呼ぶのはロンドンやパリ、遠くはブエノスアイレスからわざわざ来てくださ
る人々を指しています。ゴディバのようにパリやロンドンには出店しません、と。確かにウィーンで食
したザッハトルテにウインナコーヒーは美味しかった。ウィーンの風土、気候がこれらのものを美味し
く感じさせるのだ。日本に送ったザッハトルテは、暑い大阪では全く美味しさを感じなかった。やはり
ウィーンにまで行って味わうものだ。女将はそれを知っていたのだ。
しかし、デーメルは事情があって代替わりした。1988年にデーメルは上野風月堂とライセンス契約
を結び東京に出店した。

                                         <つづく>

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