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経営の岐路(1)

投稿日: 2008年8月11日

経営の岐路(1)

1965年6月

初めての海外旅行から帰国する機中で、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの百貨店問屋のM商店の石黒氏
と偶然乗りあわせた。パリのオペラ座の近くにあるショコラ・フーシェとライセンス契約の交渉に
行っての帰りという。さすがは百貨店問屋では日本一と言われるだけのことはあると感心した。

旧態依然の百貨店は新しい流通業界の寵児、スーパーマーケットの台頭に対抗すべく従来から日本
の老舗をあつめた「名店街」の国際版をつくろうと計画していたようだ。先にも述べたが高島屋が
クリスマス、歳暮の目玉としてスイスのシュプリュングリのチョコレートを現地から直送する企画
などは、新興のスーパーにはできないだろうと、対抗意識むき出しの企画であった。フォーション、
フォトナム・メースン、ゴディバなどが次々と百貨店のメインストリートを占めだしたころである。
しかし食品、なかでも菓子はピエール・カルダン、ディオール、グッチのような当時流行ったアパ
レル商品とは違って大きな売上や利益を出すのは容易ではない。日本ではヴァローナを知らなくて
もゴディバを知らない人はいないだろう。そのゴディバの親会社はキャンベル・スープ(1966
年買収)であった。しかしゴディバは2007年12月にトルコ企業に売却されていることは余り
知られていない。ブランドが知れわたればわたるほど、製品は大量生産される。すると手作りの逸
品ですよと言っていることと実際の生産方法とは乖離して、マスマーケティング手法にならざるを
得ない。コモディティ化(大衆化)と陳腐化の道をたどる。そんなチョコレートは日本だけでなくアメリカでも拡売が続かない。その当然の結果は利益の確保が難しくなる。キャンベル・スープは本業に戻る決心をして遂にゴディバを手放した。

<日本人は1個いくらかが購買決定のカギを握る。1グラムいくらかをほとんど意識しない。グラ
ム単価で計算する習慣(ユニットプライス)がないので信じられないほど高い価格設定がなされて
いる。今評判の海外のチョコレート・ブランド・メーカーにとって日本ほど金になる国はないので
ある。>

本題からそれた。百貨店問屋のM商店は百貨店の意向のもとに行動していると私は直感した。そん
な百貨店と取引を続けるのであれば百貨店を惹きつける新しい製品が必要だ。ホップチョコが発売
から1年も経たないあいだに色褪せてしまったので新しい商品を開発しなくてはならない。そこで
電通と相談をした。電通の第一連絡局の三谷与志夫局長は私の高校の先輩で、当時、壽屋(現サン
トリー)のAE(Account executive)であった。(彼は終戦時、海軍大尉(海兵71期)、『回天』
の指導教官であった。)

私は1960年、25歳のとき大阪青年会議所に入会した。当時の会員数は100名余で大阪の錚々
たる企業の青年経営者で活気に溢れていた。そのときのリーダーシップ・トレーニング委員会の委
員長が三谷先輩であった。高校が同じである誼から私を同じ委員会に入るよう勧誘され入会した。
その結果は驚くなかれ、鳥井道夫(大阪青年会議所副理事長、壽屋専務取締役)の知己を得ること
になった。壽屋(現サントリー)が全国発売するローヤル・クラウンコーラのマーケティング会議
にオブザーバーとして毎回出席することが許された。いま考えても信じられないことである。

壽屋で学んだ食品業界のマーケティング手法をもとに電通で編成された特別プロジェクト・チー
ムが中心となって、1966年9月、新製品の「パリッフェ」が完成した。巻き煎餅の中にガナッ
シュを注入し、チョコレートをカバーした製品だ。フィルムで両ひねりの包装をして洒落た缶入り
に仕上げた。百貨店の仕入れ担当者の評判は上々で特設ケースが与えられた。

試食販売では「味は良いが、価格が高い」と売れ行きは期待するほど伸びなかった。1年も経たな
い翌年の中元戦線に神戸の本高砂屋のクリームパピロが発売され電通の英知を結集したパリッフ
ェは、一敗地にまみれた。美味しいものが売れるとは限らない。価格が高いといくら美味でも売れ
ない。クリームパピロは現在も販売が継続されている。日本人に愛されている長寿商品である。
日本で、否、世界的にも知られている電通と企画した製品は膨大な時間と金を食って尻すぼみに終
わろうとしていた。当時オリムピア製菓の主力製品は割チョコ、棒チョコでありふれた陳腐商品で
あった。洋行がえり(当時の言葉。その後アメションとなった)の私は焦っていた。どこにもない
美味な商品をつくれば売れるはずという強い思いこみがあった。大丸京都店の半提(外商の顧客を
店以外の会場へ招待して半額提供する催事)で売れたものは、ピーナッツチョコレート、と割チョ
コ。150グラムの透明フィルム包装の板チョコ、アイガーシックス(文鎮型のチョコレートで山
が6個)は斬新な モールドをつくって洋行帰りのメンツを保った。リンツの板チョコを参考写真と
して掲示する。

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百貨店とスーパーマーケットとの確執は年を追うごとに激しくなっていた。ダイエーの三国店、
庄内店(阪急電車の沿線の店舗)がオープンすると、阪急百貨店からさっさと掃除をして引き上げ
てくれと退店を促された(1964年)。おなじくサカエ薬局難波店の開店によって高島屋からも
撤退を余儀なくされた。しかし、あられ屋の「とよす」は同じようにダイエーと取引をしていたが
お咎めなしだった。ビジネスの世界は所詮力がものをいう。悔しかったが現実を受け容れざるを得
なかった。近鉄百貨店、大丸、京都大丸、三越の口座はかろうじて残っていた。大丸京都店ではピ
ーナッツチョコの売上が驚異的な売上記録を達成したので店長からの覚えもめでたかった。

       <つづく>

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