投稿日: 2008年8月31日
経営の岐路(4)
ここでも私は理事長に手紙を書いた。中根千枝の『タテ社会の人間関係』を引用して組合事業の現
状を暗に批判しながら、オリムピア製菓が新しく設立した株式会社日本チョコートにダイエーの口
座の提供と営業部員とともに貢献したいと書いた。理事長は京大(滝川)事件にも関わったといわ
れる人物である。泣く子も黙るおそろしく頭の切れる巨魁であった。「タテかヨコか知らんけどダ
イエーの口座をくれると言うなら一度、息子に会って話を聞こう」といって父に連絡があった。
年の瀬の12月14日の午後、葛野御大はオリムピア製菓に一人で現れた。それは真剣勝負の3時
間であった。開口一番、父に「こんな工場はとてもチョコレート工場とは呼べない」と、厳しい口
調で言った。父はひどく傷ついて死ぬまで、何回もこのときの侮辱の言葉を悔しそうに繰りかえし
た。この一撃で父はすっかり黙ってしまった。そこからは尋問口調で私に矢継ぎ早に質問が飛んで
きた。しかし意地悪い質問のウラには組合の運営、とりわけ株式会社日本チョコレートの現状には
苦慮している様子がありありと分かった。この話はダイエーの内諾を得ていることを知ると全てを
納得して帰っていった。後に栗田先生は言った。双方にとって渡りに舟だったのだ、と。
あけて1969年1月11日、株式会社日本チョコレートの社長、井上重雄(フランス屋製菓の社
長)の来訪を受けた。葛野友太郎(モロゾフ製菓の社長)は日本チョコレート工業協同組合の理事
長、株式会社日本チョコレートの会長で多忙を極めるなか着々と手を打っていった。しかも迅速に。
栗田先生は言った。「専務、これからが修羅場ですよ。従業員、仕入れ先、社債の持ち主、銀行は
金と直接関係があるので、生やさしいものではありません。今まで以上に隠密裏にことを運ばなけ
ればなりません。今後の交渉ごとはイェス、ノーを明確にして曖昧な言動は許されません。今が、
九十九里が道なかばと心得て覚悟を決めてください。」この言葉は重かった。
2月から計理士を度々招いて会議に同席してもらいながら細部の計画を練った。今までが1段目と
すると、7月25日の決算日までを2回に分けて実行するする計画にした。株式会社日本チョコレ
ートの決算日にあわせて4月30日に全ての営業活動を日本チョコレートに移す(2段目)。7月
25日をもってオリムピア製菓の業務は停止する。従業員は全員解雇する。営業の債権債務は日本
チョコレートに移管する。セールスは全員日本チョコレートに引き取ってもらう。専務取締役の富
永勸は日本チョコレートにオリムピア製菓から出向させる。
7月に従業員を全員解雇するには、退職金、1ヶ月分の予告手当、つまり、終戦費用が必要である。
全員解雇反対のストを打たれないように抜き打ちでやらなければならない。秘密の絶対保持。この
推進、実行は専務の仕事だ、と栗田先生に言いわたされた。これから先、ストレスのつづく月日が
3年ほどあった。胃痛を隠しながら試練だと思って耐えた。後述するが出向した株式会社日本チョ
コレートを3回も整理することになるとは、当時、思ってもみなかった。
オリムピア製菓が持つ口座はダイエー以外に、灘神戸生協、ジャスコ、イオンの発祥の地、姫路の
フタギ、イズミヤ、ライフ、いかりスーパーがあった。よって日本チョコレートの実務者たちにと
っては予想外の朗報であったに違いない。日本チョコレートの辻専務が元陸軍の主計少尉であった
ので債権債務の引き継ぎは問題なく組合役員の諒解がとりつけられるだろうと、4月の時点で判明
した。
辻専務からは経理について多くのことを学んだ。日本帝国陸軍の主計少尉に心からなる敬礼をおく
った。彼は芥川製菓から出向してきた人であったが、芥川製菓時代、江崎グリコの下請けの原価計
算を長年やっていた。その経験のすべてを私に授けた。このようなOJT(On the Job Training)は
その後ダイエーのPBを請けたときにどれほど役に立ったかわからない。その手法はベルギーで興し
た会社に引き継がれ今も脈々と生きている。
会社の存亡はボクシングに似ている。ファイティングポーズを取っているかぎりタオルは投げこま
れない。終戦処理に要する3000万円の資金調達のシナリオを緻密に考えた。銀行にほんとうの
ことを話して調達してくれる確率は限りなくゼロに近い。そこで2月に、前田製菓と神戸屋に話を
した。オリムピア製菓を買収してほしい、と。両社とも藪から棒の話に驚いた。理由を問うた。い
まの設備では利益のでる仕事にならない。おたくの仕事から利益をだすためには設備を一新したい
が資金がない。だから買収してほしいのだ、と訴えた。
前田製菓はチョコレートの設備はもっているし、オリムピア製菓の工場も見て知っている。前田三
郎専務からすぐ協力できないと断られた。神戸屋の桐山専務は真剣に考えてくれて社長までこの案
件をあげ3者会談が持てた。しかしやはり最後は断られた。そこで、「神戸屋さんが今まで以上に
買っていただけるようであれば、神戸屋の注文を拡大すると桐山専務からくち約束をとりつけたと
いって銀行と借入の交渉にいくが承知してくれますか」といった。桐山専務は曖昧な態度であった
が強く否定はしなかった。
そこで私は三菱銀行梅田新道支店に借入の申込みに行った。ダイエーの社長と商品部長に会ったこ
と、神戸屋の社長、専務に会ったこと、その結果、仕事は増えるが今の設備では利益がでない。設
備資金として3000万円を貸してほしいと滔々とまくし立てた。このチャンスを逃がすことはで
きない。どうしてもシーズンの始まる9月末までに完成したい、と力をこめた。三菱銀行の貸付窓
口は私より年少の青年で心情的な理解者であった。機械メーカー3社の競合見積書と、工場の見取
図に機械の設置場所、従来とどう生産性が改善されるかを具体的に説明した。
<つづく>
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