投稿日: 2008年9月16日
日本チョコレートへ出向
ひとまず経営の方向性が定まった。多くの人たちのおかげであった。親の七光りと揶揄されながら
オリムピア製菓の経営に携わってきたが、親の七光りがあったればこそ経営危機を避けられたと思
う。オリムピア製菓の顧問が大谷派の佐藤義詮(大阪大谷大学短期大学部初代学長、1959年から
大阪府知事)であったことから「祈り」「おかげ」「感謝」について全社員が教わっていたことで
最後まで大きな労働争議に至らなかったと思われる。1985年には佐藤恵(郵政大臣)に動いても
らった(後述)ためダイエーの「ゆうパック」を利用したプロジェクトでダイエーのメンツが立っ
たこと、三菱銀行に全ての借入金を肩代わりしてもらったことなど七光りがなければオリムピア製
菓は廃業か倒産していたであろう。
大阪青年会議所でリーダーシップ・イン・アクションというポール・J・マイヤーのプログラムや
ロバート議事法を導入して熱心に実践していた。これらのプログラムに栗田先生の教えを自分なり
にミックスして”Plan, do, action”プログラムを創った。これが出向先の日本チョコレートで役だった。その後ポール・J・マイヤーのプログラムを通じて平岡知矩先生、芳村思風先生に出会うことになる。
大阪青年会議所で忘れてはならないことがある。1967年当時、IBM360システムを導入した
会社の役員に、電算機とはどんなものかを知らしめる2泊3日のオリエンテーションが天城で
行われたことはつとに知られている。大阪青年会議所の法人メンバーであった関西電力の肝いりで、
同じような合宿を大阪青年会議所のメンバーのために20名限定で行われた。この合宿に参加したと
きに受けた衝撃は大きかった。その内容はいま読んでも高踏的で難解である。今と違い電子計算機
と呼んで我々文化系の人間には縁遠い存在であった。それを導入企業の役員に概論、管理、オペレ
ーティングシステム、プログラム、パンチカードに入力、紙にボールプリンターで出力するまでを
演習すると、電子計算機とはどのようなものかが理解できる。このときのノートを機会があれば公
表したいと思っている。
日本チョコレートに出向して心に決めたことが三つあった。
その1.どれほど競争が激しくなろうとも法律を遵守し、良心にはじない商品を売ろう。現在では
偽装と呼ばれているが、当時の言葉では偽和と呼ばれ「日本は偽和天国だ」と磯部晶策著『食品を
見わける』(岩波新書)の112ページに書かれてある。
不当景品類及び不当表示防止法(景品表示法)第12条の規定に基づいて、業界団体が、景品類又は
表示に関する事項について自主規制ルールの 公正競争規約をつくったのは1960年であった。チ
ョコレート表示についていうと、業界人には分かっても一般消費者には正しく理解されないであろ
うと、私は思った。表示法を守っていれば法 律を遵守していることになる。しかし良心に問うて自
分の身内に胸を張って食べさせることができるか。赤ちゃんや身体の悪い老人が食べても問題のな
い商品であるか。家族に安心して食べさせら れる商品か。この一点を守ろう。
この一点は絶対に譲れない。(偽和、偽装のない商品)
その2.自分の器に見合った目標を守ろう。それは社員10名で年商20億円の目標だった。これ
は山星屋の小西社長の影響によるものだった。私が日本チョコレートに行くことを知った小西社長
が山星屋に来ないかと誘ってくれた。ありがたかったがお断りした。私の使命は日本チョコレート
工業協同組合のために、否、チョコレート業界のために働く決心をしていることを正直に話した。
小西社長とは3回会った。遂に小西社長に分かっていただき、年商2億が「食品卸」の常識だから
これからの日本チョコレートの目標にしてはどうかと激励された。(社員1名の年商、2億円)
その3.それは「思いこみをしないこと」であった。1963年、卯年に因んでブロー成型の可愛
いウサギチョコ(ホップチョコ20粒入り100円売価)を正月製品として売りだした。年末年始
に品切れをおこすほど売れた。それで1964年の辰年にタツノオトシゴのブロー成型に前年同様
の体裁で正月商品(ホップチョコ20粒入り100円売価)を発売したが、今度は全く売れない。
大失敗だった。これはウサギが可愛かったからうけただけで、卯年とは何ら関係なかった。自分だ
けの思いこみだった。柳の下に2匹のドジョウはいない。(独断専行しないこと。人の話をよく聞
くこと。自分が2世であることを自覚しよう。)
「経営の岐路」は私がどのような出自と経験(バックグランド)をもっていたかを読者に示すため
に書いたものである。書きながら多くの自戒をおぼえた。同時に自責の念も多く感じた。漫然と父
の家業を継いだことへの疑問から自分でも思いもしない人生の方向へ向かっていった。すべては塞
翁が馬である。出向後業績があがらずネッスルのセールスマネージャーの採用試験を受けたことが
ある。しかし自分の英語力ではとうてい外国人の上司を説得する力がないことを悟り、半年ほど考
えて転職 を諦めた。この決断と、後のノイハウスジャパンの社長辞任が現在の自分をつくりあげた。
何が幸いするか分からない。
1970年、オリムピア製菓を整理して日本チョコレートに出向したが、給料が3分の1に減った。
そして今まで部下だった営業社員との給料の差が僅か20パーセントしかなかった。日本チョコレ
ートの株式は一株も持たせてもらえなかった。ぼんぼんから現実の社会の厳しさを知ったのはこの
ときであった。そんなとき大阪青年会議所より日本青年会議所の青少年教育委員会へ出向すること
になった。それは清風高校の平岡英信校長の推薦によるものであった。子供が3人あって家計もま
まならぬ状態の時、毎週のように自弁で東京へ行かなければならない。辞退するにしかずと家内に
言ったところ、私が稼ぐから日本青年会議所の仕事をつとめろと言う。社会貢献することで自分の
値打ちがあがる、と。
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