投稿日: 2008年10月5日
流通菓子の取扱いに悩む
私が日本チョコレートを整理して1年余り絶望の毎日が続いた。理由は、日本チョコレート大阪営
業所の1ヶ月の必要経費、150万円に対して売上が150万円にも充たなかったからだ。売上の
ないことに焦った。自分の信念として「家族のものに食べさせられるものしか販売しない」をモッ
トーにしていたことに起因した。オリムピア製菓時代は純チョコレート表示のものしか製造してい
なかった。しかし、日本チョコレートの株主メーカーが供給してくるチョコレートはほとんどがマ
ル準チョコレートであった。表示さえしっかり記載していれば法律には触れない。だが、自分の信
念から外れた偽和商品を販売しなければならないという状況になったことを悩んだ。必然的にセー
ルス活動に身が入らない。
先に書いたようにネスルの会社に転職しようかとさえ考えたのはこのときであった。しかしそのネ
スルでさえ偽和チョコレートを販売している。東南アジア地区では植物性油脂を混入したチョコレ
ート販売しているのだ。多国籍企業のネスルやコカコーラは展開している国ごとに味や品質は違う。
自分はいまオリムピア製菓から出向して日本チョコレートのために来ているのだ、と自分に言い聞
かせた。自分の信念を貫くためには自分の会社を持たなくてはならない。その時がくるまで己の信
念に封印をすることにしよう...
1970年1月、オリムピア製菓の土地が日刊工業新聞社に売却できた。三菱銀行とめでたく清算
が済み、父は新工場の敷地探しを始めた。父は私の勤めている日本チョコレート大阪営業所付近を
物色していた、しかしおりから万博のあおりを受けて大阪の第二都心計画のある吹田市江坂付近は
地価が高騰し手がでない。やむなく摂津市に200坪弱の土地を求めた。旧工場から引き揚げた機
械類をテント地で覆い、僅か100余坪の2階建ての工場を建設した。父に共感する社員が2人、
3人と戻ってきた。しかし売り先もないのに、から元気だけの父をみるに忍びなかった。
1971年のそんなある時、日本青年会議所菓子部会の発起人会が終わった後、神戸風月堂の下村
光治に頼んだ。私はいま日本チョコレートに出向しているので親父に親孝行ができない。なにか仕
事をいただけないか、と。下村社長は即座に、「よっしゃ、まかしとけ、君の代わりに俺が親孝行
したる。」親分肌の下村社長は3日後に仕事を持ってきた。それは「神戸ピアー」という商品であ
った。私は驚いて、これはいままでどこかに出していた製品でしょう。その工場は困っているでし
ょう。「そんな心配は君がすることではない。その心配は俺がすることや。」出来る男の決断は早い。
実行も早い。それ以後、私は神戸の方に足をむけて寝ることは出来なくなった。同時に父が純チョ
コレートの製品を製造することになったことに心の安らぎを覚えた。父の再出発が嬉しかった。
1972年3月下旬、ダイエーの今村バイヤーから電話があった。「急なお願いだが、いま手元に
1000ケースの玉(ぎょく)がありませんか。あれば3日後に、近畿地区全店に納品してほしい」
「今村さん、今まで何回お願いしても採用していただけなかったピーチョコならありますが...」
「ピーチョコか。まぁ、それでもいいや。」あられの「とよす」が特売商品の納入をドタキャンし
たとのこと。おそらく百貨店の圧力に屈したものと推測した。かつては阪急百貨店からは追い出さ
れた私だが、いま、「とよす」が同じようにいたぶられているのだろう。チャンスと選択はすべて
「塞翁が馬」で、目に見えない運命の糸で繋がっているようだ。
特売が済んで売れ行きを報告に行った。「完売しました」というと「ウソだろう」と言う。「ウソを
言って何になりますか。」バイヤーは一瞬考えて、「では5月にもう一度やってみよう」と言った。
5月の連休にチョコレートの特売は考えられない。チョコレートの溶ける時期であるからだ。しか
しこの特売は強行された。そうしてこの時も完売であった。後に日本ピーチョコさんと呼ばれるよ
うになったピーチョコはこのような経緯で始まった。
私はそれまで、所謂、流通菓子というものを販売した経験がなかった。それまではオリムピア製菓
の得意先である明治屋、鉄道弘済会、百貨店、スーパーマーケット、生活協同組合、たとえパチン
コ屋ルートであってもすべて純チョコレートだけを製造して販売してきた。ところがこれから販売
しようとしているピーナッツチョコレートはカカオケーキに植物性油脂をいれてつくる、という今
まで考えたこともないチョコレートの製造方法だった。このようなものを販売して自分の信念に悖
らないか。随分、悩み、迷った。
1965年6月14日、スイスのリンツの工場見学のとき見たココアケーキの山を思い出した。コ
コアケーキを粉体にすればココアパウダーになる。絞ったココアバターを再びココアケーキに戻し
てやればカカオマスになる。価格を守るためにこのような手法をリンツといえどもとっている。し
たがって製造方法については問題ない。ココアケーキにはココアバターの含有量が低い。植物性油
脂の含有率が18%以上であればマル準チョコレートの表示になる。ココアケーキのココアバター
含有率が10%とすれば、植物製油脂の混入率は40%になる。このような製品はマル準チョコレ
ートの表示をして販売するより他に手はない。
私は流通菓子(マス・マーケット向けの商品)の取扱を自ら避けてきた。19世紀に出版された英
国の本に、チョコレートを購入するときは注意すべし、ココアバター以外の植物性油脂を使った製
品が出回っている、と記述されている。それほど昔から偽和チョコレートは存在しているのである。
流通商品とは全国区のスーパーマーケットのようなチェーンストア(ナショナル・チェーンストア
ー)を相手に生産されている商品のことである。明治製菓、森永製菓、ロッテ、江崎グリコはもち
ろんのこと、日本全国を相手にしている業者のつくる菓子を流通菓子と言う。
「良い品をどんどん安く」の良い品とは家族に勧められる商品である。食品業者の良心そのもので
ある。植物性油脂そのものが悪いわけではない。植物油脂の中には価格的にカカオバターより高い
ものもある。しかしチョコレートに混入する植物性油脂はココアバターより安価なものである。
問題なのは5%までの植物性油脂が混入されていてもチョコレートと表示できる「表示法」である。
流通菓子のほとんど全てはこの種のものである。純チョコレートを求めるには専門店で購入するし
か手がない。
後年私が日本チョコレートの役員でありながらノイハウスと合弁会社をつくったのは、自分の信念
に基づくものであった。一方、日本チョコレート工業協同組合もミルクチョコレート(MD)を限
定商品ではあるが、現在でも小売り商品として協同組合の独自商品として小売り販売を継続してい
る。国産のチョコレートではこれ以上の品質のものはない。レシピも発売以来変わっていない。
スーパーマーケットの窓口として日本チョコレート工業協同組合の事業として始まった(株)日本
チョコレートであるから流通菓子を扱わないわけにはいかない。こう自分を納得させて流通菓子を
とり扱うことにした。もう一つ納得させたものがあった。
それは当時モロゾフが森永製菓のアイスチョコを大量に販売していたことだった。一口サイズのア
イスクリームにマル準チョコをカバーして個包装したものだった。この商品は単品で20億円の売
上げをしていた。このようなブーム商品は早く止めてしまえと社長に怒鳴られんだよ。一方で売上
げを上げろとケツを叩かれ、一方で止めろと言う。20億円の売上げが出来る商品なんてザラにあ
るわけがないのに、とモロゾフの営業部長が嘆いていた。
このアイスチョコは自分を納得させるに必要、十分な理由をもたらした。
[後年、(1993年以降、2000年まで)ダイエーでベルギー産のエクストラエクストラ・チョ
コレートをバレンタイン限定商品として販売した。限定商品であるにもかかわらず毎年1億円以上
の売上があった。ベルギーチョコレートは、通常、1キログラム、1万円前後のユニット売価で販
売されている。われわれはキロあたり、2000円で販売した。消費者はコストパーフォーマンス
に極めて敏感である。残念なことはコストパーフォーマンスに敏感なバイヤーが極めて少ないこと
ある。]
[マル準チョコレート以下のとんでもないチョコレートが、21世紀になった途端、突然、売れ出
した。三越が取扱を始めた「生チョコ」と称するトリュフであった。フランスではファンタジーチ
ョコレートとして販売されているものである。日本のチョコレート業界は苦々しく思うもの、ある
いは、これに便乗するものと様々であった。これはちょっとした社会現象であった。あまりにも無
視できない売上規模の大きさに従来の表示法を改正した途端、この「生チョコ」は売れなくなった。]
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