投稿日: 2008年11月30日
ダイエーのPB誕生(2)
まだメーカーの定番商品にレッテルを付けかえだけの代物で、とうてい胸をはってこれがPBです
といえる状態のものではなかった。1970年8月28日、ダイエー中津本部の1階に「株式会社消費経済研究所」が設立され、品質管理センターの役割を果たしだしていた。翌1971年9月1日にはクレーム110番制度が発足した。こうして体裁は整ってきたがまだPBだと自慢できるような開発体制が整ったと言えるものではなかった。理由はまずダイエーのPBについての全体像を誰も鮮明に描ききれていないことであった。とりあえず売れているものでメーカーがダイエーブランドに応じてくれるものから始めようという雰囲気であった。ダイエーの売上が1000億円をこえた1970年頃になってもロッテ以外の明治製菓、森永製菓、江崎グリコ、不二家という大手は本気でダイエーと協力する姿勢は見えなかった。新興スーパーを無視するわけにはいかないが全国津津浦々の小売店の面倒を見てくれる問屋への配慮からOEM生産を引き受ける気持ちはまるでなかった。その結果PBの発注先が日本チョコレートにまわってきたといっても過言ではない。われわれにとっては幸運以外のなにものでもなかった。
PBは迷走を極める日本チョコレート工業協同組合の共同事業である日本チョコレートにとっては慈
雨のような存在であった。だが流通革命としてダイエーをダイエーたらしめるような価格破壊ではな
かった。国会に取り上げられた1964年、松下電器産業とテレビの値引き販売をめぐって『ダイエー・松下戦争』が勃発したような社会的なインパクトはなかった。流通革命だと声高に叫んだダイエーブドランドのテレビ「ブブ」(1970年)でさえ世間の目は冷ややかであった。ましてや問屋無用論はいたずらに旧来の流通体制との堀を深めるばかりであった。PBを供給する日本チョコレートとしてはその責任を果たすために、メーカーから商品が到着したらまず試食をすることを社員全員に徹底させた。まず試食すること、こんな簡単なことがいまでも行われない。(百貨店・スーパーのバイヤーは試食しない。)しかし食品であるからにはロットごとに試食することはあたりまえだ。株主からの入荷商品でも試食を徹底した。試食のおかげで事前にクレームに至らなかったケースが2回あった。2回とも異臭であった。一回目は薬品臭、二回目は倉庫臭。チョコレートの半分は脂肪である。油脂は匂いを吸収しやすい。 ダイエーのPBを請ける前に神戸屋ブランドのウエハースを納入したとき異臭がするとクレームがついた。メーカーは日本チョコレート工業協同組合の組合員、有楽製菓であった。製品はメーカーから神戸屋に直送された。検品は神戸屋で行われた。エーテル系の異臭がすると連絡があった。僅かな匂いであった。印刷のインクの臭いか、フィルムを貼り合わせるときの溶剤か、微かな異臭である。包装フィルムは神戸屋の支給であったので印刷業者が呼ばれた。業者は、これは貼り合わせた後の処理が不完全であったために溶剤の臭いが残ったことを認めた。神戸屋の経験から商品を検収するときは必ず試食をすることが習慣になった。 1971年9月下旬に上記6品のPBが誕生した。ゴールデンタイムズのPBは流通菓子と互角に戦えるかと本部バイヤーと一緒に固唾を呑みながら全国に一斉出荷した。流通菓子で同年に発売された新製品は、森永製菓の小枝チョコ、明治製菓のコーヒービート、チェルシー、不二家のハートチョコ、ヤマザキナビスコのリッツ、東鳩のキャラメルコーン等であった。 これらの新製品に負けじとダイエーは毎週のようにチラシ宣伝を打ち、エンドに大量陳列を行う特売を打った。おかげで予想を遙かに上まわる売上を達成した。当時の大量陳列はエンドに100ケース以上も積みあげるもので圧倒的なボリューム感が客の目をひいた。 翌年、ダイエーのPBの商標が変更された。はやくからダイエーのデイリー(生鮮食品)で使われていたキャプテンクックに統一することになった。ゴールデンタイムズのブランドはあえなく1年でお蔵入りとなった。 毎週のように6品目の中からアイテムをかえてチラシ広告をする特売が続いた。特売を打つごとに売上は増えていった。月に3000ケース以上の物量が動くと日本チョコレート工業協同組合のメンバーや日本チョコレートの株主の目のいろが変わった。売上が伸びると当初営業所として借りていた事務所兼倉庫(大阪市東区農人町)は手狭で移転を余儀なくされた。聞けばダイエー本部も中津から吹田市江坂に移転することを知り、移転先を同じ吹田市決めた。ダイエーの入居予定ビルと目と鼻の先、800メートルしか離れていなかった。 ロッテはダイエーのPB化の要請をうけそれに応じた。しかし同じロッテの製品であってもガムは当時も今もロッテブランドにどこも勝つことはできない。ある日玩具菓子担当のバイヤーからミニカーガムの注文が日本チョコレートに舞いこんできた。それは中国製のミニカーにダイエーキャプテンクックのガム1枚をセロテープでとめて、頑菓売り場で販売するためである。ダイエーにはこのような加工を引き受ける専門業者や玩具菓子の専門問屋があった。 しかしこの仕事は儲からない。ミニカーはダイエー輸入部が直接輸入したものが現物支給される。ガムも同じく現物支給。加工元はセロテープ、表示ラベル、カートンを準備するだけだ。上記2社はこの仕事を断った。日本チョコレートとしてはダイエーの仕事は何でも歓迎するということを態度で表した。しかしこんな簡単な内職仕事を工場内のラインで受けるパッカー(包装加工業者)はいない。内職(一般の家庭に外注加工させる)は品質管理上、問題があるのでダイエーは場内加工を要求した。このような内職仕事を加工所の中のラインで作業をするところは滅多にない。やむなくオリムピア製菓の社長、つまり実父に相談した。
「大阪食品加工センター」という会社があると父から連絡があった。元学校の先生で門真市と天王寺区で学習塾を開いていたが近年になって塾をやめ、塾の教室だった場所を使って内職仕事を事業所内でやっていると知らせてきた。野球帽を無造作にかぶったとても元教師には見えない男だった。工賃は内職工賃の2倍くれという。それで結構だといって仕事をだした。しかしこの仕事は思わぬ代償を払う結果が待っていた。
<つづく>
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