投稿日: 2008年12月8日
ダイエーのPB誕生(3)
ミニカー、チューインガムはダイエーの現物支給であったので検品、試食は行わなかった。これが
後のクレーム問題に発展する。製品化したミニカーガムを全国に出荷して1週間もすると「ミニカーのコマが外れる」というクレームが続出した。調べてみると10個に2~3個の割合でコマが外れる不良品であった。ダイエーは直ちに販売停止をして全品が返品になった。バイヤーは問題解決のためすぐ香港へ行ってくれという。日本チョコレートが輸入したわけでもないのに、心は穏やかでなかった。自分たちで検品、検収を怠ったばかりにとんでもないことになったと悔やんだ。返品になった製品を解体して検品すること、在庫のミニカーもすべて厳重に検品して良品と不良品を選別するようにと言い残して香港へ飛んだ。 香港駐在のバイヤーは本部からの説明を聞いていたらしく大変丁重に遇してくれた。直ちに輸出業者のところを訪問した。
訪問するまでに手際よく訪問の意図を先方に伝えてあった。駐在員のシッパーへの要求は簡にして要を得たものであった。不良品は廃棄して新しいものと取りかえる。シッパーの回答は回収費用、開梱、検品、再作業の費用に見合う賠償には応じられない。1ヶ月以内に代替貨物を出荷する。さすがはホンコン商人、したたかであった。交渉結果はざっとこのようなものであった。駐在バイヤーは、御社がこの条件を呑めばこれで手を打ちましょうか、という。 交渉の経過を聞いていてこれ以上の条件は引き出せない。潮時だと思って承知した。駐在バイヤーの交渉態度に惚れ惚れした。
聞くと彼は大阪の大手商社にいたが身体をこわしたためダイエーに転職したという。多くの人材がダイエーに移ってきていたがこの人はその中でも出色の人であった。後年私が海外取引を始めたときしばしば彼の交渉術や相手との話題の選び方などを知らぬ間に応用していた。1990年から私は海外事業に手を染めたが、ベルギー「ノイハウス」、「ヴァンダイク」、フランス「エル・ブレトン」、イタリー「マイヤーニ」、「チェドリンカ」と次々、煮え湯を飲まされた。海外取引は生やさしいものではない。 ホンコン駐在バイヤーは、教養や文化的素養をもった人が少ないダイエーの中にあって出色の人で
あった。ダイエープロパーの中でも素直な心をもった人や文化活動を盛んに行っていた人たちが、現場の厳しい仕事に違和感を憶え自殺した人や心身障害をおこした人が少なくないことを知っている。また外部から移籍して来たた多くの有能な人材がダイエープロパーの人たちによって潰されていくのを見るにつけ私には耐え難い憤りがあった。 しかし日本の社会風土はこのような理不尽なことに対して一顧だにしない冷たいものがあることもまた事実である。特にダイエーはこの時代戦場と同じような様相を呈していた。1972年、ダイエーは三越を抜いて小売業売上販売高で日本一を達成した。中内功がレジの音に勝る音楽はないと「わが安売り哲学」(1969年)に書いた3年後のことである。これは正常な成長ではなく異常な膨張と呼ぶべきものだった。戦場には幾多の死負傷者がでる。 話を本題にもどそう。香港まで出張して不良品の取りかえだけで骨折り損のくたびれもうけの感がして帰国の飛行機の中では気が晴れなかった。身体をこわしてダイエーに転職した素晴らしい男と知りあったことが大きな収穫であった、と思った。しかしこの仕事はまた厄介な問題を引き起こすのである。 これからクリスマスの繁忙期を迎えて因縁のミニカーを販売しなければとバイヤーと手はずを整えている矢先、大阪食品加工センターが火事になった。以前の在庫も新しく良品に取り換えられたミニカー、そしてゴールデンタイムズチューインガムもすべて灰燼にきした。そしてあろうことか大阪食品加工センターは火災保険には入っていないというではないか。西社長と荒井工場長が謝りに来た。直ちに弁償する資金がないので、今後仕事をさせてもらった中から月賦で弁済するというのだ。
<つづく>
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