投稿日: 2008年12月15日
ダイエーのPB誕生(4)
ここにきてダイエーのバイヤーはミニカーチョコのプロジェクトを中止した。この決定で相当
な被害がでた。火事の損害賠償はこちらが出す仕事の工賃から月賦で弁済するということは何か仕事を作らなくてはならない。どうすべきかあれこれ思い悩んでいたが仕事は向こうからやってきた。 当時ピーチョコと並んで売れていたものにブルボンブランド(北日本製菓)のホワイトロリータがあった。流通菓子の北の雄、北日本製菓としてはドル箱のホワイトロリータをダイエーのPBにする気はない。しかし大量に売ってはもらいたい。そこでダイエーは北日本製菓からホワイトロリータをバルクで仕入れて独自にリパックして販売した。いわゆる、ダブルチョップである(製造者、北日本製菓。販売者、ダイエーのレッテルを貼付する)。この商品がバカ売れした。ダイエーの包装加工を手広く請けていた業者、鶴橋製菓がこの商品のダイエー特選の袋詰め作業を引き受けていた。年末年始用の特売にピーチョコと北日本製菓のホワイトロリータが選ばれた。 鶴橋製菓ではクリスマスブーツの加工も請けていた。
クリスマスブーツは他にも業者がひしめいていた。クリスマスブーツは儲かるのである。クリスマスケーキとクリスマスブーツは今では想像もつかないほど売れた。しかし当時のダイエーの伸びは倍々ゲームのようなもので業者が先手を打って自社で計画生産を果敢に行わない業者はついて行けない。計画を立てようにも担当バイヤーですら明確な計画がたてられない。成り行きまかせの観があった。鶴橋製菓はクリスマスブーツとホワイトロリータの注文のどちらかを諦めなければならなかった。 ピーチョコを採用した今村バイヤーから電話があった。年末年始用の売出用にホワイトロリータを1万ケース12月25日までに用意してほしい。ついては加工費の見積りを持ってこいと有無をいわせない。 さっそく大阪食品加工センターに見積らせた。日本チョコレートにとっては、このホワイトロリータは余分の仕事であった。ミニカーで出した損害を取り戻さなければならないので僅かの口銭を乗せて見積書を提出した。今村バイヤーは間違いではないかと念をおした。鶴橋製菓の工賃より何割も安かったようだ。しかし包装加工の最大手の鶴橋製菓の面子をたてダイエーは鶴橋製菓の帳合で納入するように指定した。 大阪食品加工センターも12月のことではあり、火事の後片付けもあって多忙を極めていた。大量の受注があったということで、西社長は日ごろ内職仕事で懇意にしていた大日本印刷に応援を依頼した。大日本印刷はダイエーとも親しく付き合っていたのですぐ事情を呑みこんで軟包材の取引先の一つ、福井県の細川セロハンを紹介した。かねてから大阪進出を企てていた細川守正社長は大阪食品加工センターを買収した。大日本印刷としてはダイエーとの直接取引を拡大することも大切ではあったが、PBやダブルチョップの製品開発の後方支援にまわる方が、リスクがより少なく売上も拡大できると読んだようだ。後に大日本印刷はダイエーの指名業者となりすべてのダイエー関連印刷をとり仕切りリベートを上納しなければならなくなった。 大阪食品加工センターは大阪パッケージセンターと改称され西社長は退陣した。工場長であった荒井武男は新開包装加工所を興し独立した。大阪パッケージには奥屋寛二という有能な青年将校がいた。純朴な青年、荒井武男ともども私は世話になった。ベルギーのパートナー、ポール・ダムズ (Paul Daems) もこの二人に学び、すっかり啓発され、現在、250人の包装加工所をチェコ共和国で経営し大成功をおさめている。 やはり組織力と資金力は仕事を円滑に運ばせることを証明した。品質管理も大日本印刷の品質管理基準で行われたので申し分ない。年末年始用の商品、1万ケースは無事完納できた。日本チョコレートは面目をほどこし鶴橋製菓は大きく面目を失った。
この一件で日本チョコレートの評価はあがった。間違いなくよろず承り所的な存在になった。ダイエーのバイヤーは言ってみれば見積りについては素人同然である。通常は数社から競合見積りをとって相場のあたりをつけていたに違いない。しかし加工費については相手の説明が上手であればつい早のみこみしてしまう。加工業者は内職を通じてお互いに情報の交換をしている。ダイエーに出入りしている加工業者に高いかどうか確かめても似たような見積りしか得られない。 包装材料(袋、シール、カートンケース、セロテープ、ビニールタイ)の単価はどれをとっても単価は低い。それぞれに2~3割上乗せをしてもバイヤーがこれら材料の相場を熟知していなければ高いか安いか見当のつけようがない。しかも材料一つ、一つに歩留りを3~5%もつけている。機械の償却費、まことしやかな加工費計算書を鵜呑みしていたようだ。日本チョコレートの見積書をみてそれまで如何に高い加工費を払っていたかを知った。
これ以後、日本チョコレートには様々な包装加工の注文が舞込むようになった。なかでも大きな仕事はクリスマスのブーツであった。それまでのブーツはボール紙にフェルト地を貼りつけ加工した赤いブーツ、銀紙を貼りつけた銀ブーツが主流であった。これらは一個ずつ手作業でつくるので価格も高かった。日本チョコレートはビニール加工したビニール靴を提案した。ブーツ単価は赤靴、銀靴にくらべ比較にならないほど安かった。安くなった分でブーツに詰める菓子はメーカーもの(明治、森永、グリコ等)と呼ばれるものを詰めた。「よい商品をどんどん安く」を貫いた。 <つづく>
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