投稿日: 2008年12月22日
ダイエーPBの誕生(5)
次々とPB案件が持ちこまれてきた。しかしチョコレート以外の案件には、ミニカーの失敗が
あるので慎重にならざるを得なかった。チョコレートは家内工業でないかぎりある程度の量産
は可能である。昼夜二交代、もしくは三交代で量産すれば「良い商品をより安く」提供できる。
しかしその他の製品は生産現場のどこをどうすれば生産能力が効率よくあがるか分からない。
分からないものには手がだせない。そんな中、ラムネ菓子の案件が来た。ラムネ菓子は夏場商
品である。当時ダイエーの売り場は全店冷房が完備されていなかったのでPBのチョコレート
6アイテムは夏期には休売していた。
夏場商品は喉から手がでるほどほしかった。ラムネ菓子は乾式(錠菓と呼ばれ、口中であめ玉
のように舐めるか、噛む)と湿式(口に入れると唾でシュアっと溶ける)の2種類がある。す
でにオリムピア製菓時代にどちらの商品も外注で手がけていた。乾式はスタンピングマシン
(打錠機)があれば量産可能である。以前から付きあいのあったラムネ菓子のメーカーにダイ
エーPBの製造が可能かどうかを打診した。このメーカーは森永製菓の湿式ラムネのOEM生
産をしていた。森永製菓の諒解をとらないと提供できないと言う。そこでまた父に頼みこんだ。
1960年まで森永ストアーの下請けをオリムピア製菓がやっていたのでそのときの人脈をた
どってもらった。
包装形態と味を変えることを条件にダイエーに販売しても良いと許可が出た。私は青年会議所
でしばしば日本チョコレート工業協同組合の青年会や日本青年会議所の菓子部会などへ講師と
してフレーバーについて技術的な演題で講習を依頼していた塩野香料の副社長、富樫英一の助
言をもとめた。上品なライムの香りをした柑橘系のフレーバーと爽やかなグレープのフレーバ
ーを用意してくれた。従来のラムネ菓子の味とは香料の設計が違った。ダイエーのバイヤーも
大満足であった。
次は包装形態を考えた。紙でロール状に巻くのが最も安くあがる。明治製菓のマーブルチョコ
の入ったような紙管、ポリ袋、ラムネ瓶の形をした森永製菓の塩化ビニールのブロー成型品、
スチロール樹脂のすべてのモックアップ(現物そっくりの模型)を作ってダイエーのバイヤー
に見せた。即座に一番高いスチロール管を指定した。金型代も高く、包材費も高くつく。「よ
い商品をどんどん安く」のお題目にもとりはしないか。
ネーミングはオリムピア製菓時代に使った登録商標、「ハイスット」をまた無償貸与すること
にした。キャップテンクック、ハイスットはイメージもネーミングも格好がよかった。味もよ
かった。しかし期待したほど売れなかった。夏期商品だったので売れなかった割には長寿商品
で10年以上売場から消えなかった。1個売れるごとに50銭の金型償却をもとに完全償却を
果たすことができた。
物づくりは楽しい。だれでも自分の思い通りの商品を手がけてみたい。そんな思いでダイエー
に入社した多くの社員が本部バイヤーを憧れる。しかし長い現場の経験もなく、食品製造の知
識のないバイヤーがPB、PBと血まなこになって開発した商品で大ヒットするものは極めて
稀であった。バイヤーは売場にないもの、反対に売場でよく売れているものに狙いを定めてい
た。業界からは、スーパーのPBはバイヤーの趣味嗜好でつくるものだと囁かれた。
夏場商品としてキャンデーのPB企画が来た。これもチープイメージではなくゴールデンタイ
ムズ「アソート12」という12種類のキャンデーを小さなスタンドパックに少量詰めるアイ
ディアで、大日本印刷とトッパンとの競合企画のうちのトッパン案であった。
この企画も真にダイエー的な商品企画ではないと思った。ダイエーは安かろう悪かろうという
マスコミに叩かれていることに真っ向から立ち向かおうとしていた。アソート12には主にソ
フトキャンデー(キャラメル、ファッジ、ヌガー、バタータフイ、乳菓)、半返しという糖化
したキャンデー(柔らかいヌガー、バタースカッチ、タフイ、ブリットル)、ハードキャンデ
ー(ドロップ、バターボール)の高級キャンデーを網羅したものであった。売場の棚一段を占
めるほどの大きな企画である。当然店側からの反対が強かった。何カ月も商品部と売場との折
衝が続いた。
結局ダイエーのPBとしては取りあげられずダイエー専売品となった。この商品はオリムピア
製菓や能条製菓に依頼して丁寧な手づくりで商品化を図った。味は絶品であったが価格は流通
菓子より割高であった。味は良くてもスーパーでは試食させることは難しい。販売者、ダイエ
ー、製造者、日本チョコレートというダブルチョップで消費者にはピンとこない。そのためア
ソート12はほとんど売れず短命に終わった。不二家のミルキーは私自身が毎日8釜炊いてつ
くっていた経験のあった自慢の乳菓だった。卵白を泡立てたフレンチヌガーも乾燥室で半返し
(歯で噛める柔らかさに糖化させる)のものと、スペインやイタリアのハードなものと2種類
つくった。「良い品をどんどん安く」の実現は認知度の低いブランドにとってはたやすいもの
ではなかった。
これより後(1978年)、ダイエーはよく売れている不二家の棒つきペロペロキャンデーを
PB化したがった。しかし不二家が応じるはずがない。この案件も日本チョコレートに来た。
不二家のOEMメーカー(甲府市にあるニューロン製菓)でダイエー専売品をつくった。これはよく売れた。しかし、日本チョコレートの 帳合いは外された。いわゆる「中抜き」はこの頃から始まった。
メーカーとダイエーとの直結は必ずしも双方の思惑通りに運ばなかった。
WIN WINは口ばかりで画餅であることが多い。
1972年10月、いやな問題が起きた。「輸入アメリカ産ピーナッツにアフトラキシン」と
大見出しで新聞に報道された。さっそく今村バイヤーに呼ばれた。危ないものは販売できない
ので直ちに返品すると宣告された。ゴールデンタイムズ「ピーナッツチョコレート」に使用し
ている原料ピーナッツはアメリカ産ではなく中国産であるから心配はないと輸入証明書を見せたが、
消費者からの大丈夫かという問い合わせがひっきりなしに入るので返品したいの一点張りである。
そこで私は言った、PBはもう日本チョコレートの製品ではなく御社の製品です。自社の製品
に自信が持てないのですか、と三越の仕入部であった出来事を話した。嘗て大学時代に「浪速
うまいもの会」の物産催事でオリムピア製菓の商品を日本橋の三越本店で販売していたとき、
客からのクレームがあった。その時、私が全品取りかえましょうかと仕入部の主任に申し出た
ところ一喝された。三越が仕入れた商品は三越のものであってメーカーのものではない。三越
がクレームの原因を精査して判断をする。クレームの原因がメーカー責のものであれば返品す
る、メーカー責のものでなければ三越で処分する、と言うのだ。1957年のことであった。
この話を聞いて今村バイヤーは返品することを思いとどまった。しかしこのような話は得意先
ではタブーである。今でも冷や汗がでる。
しかし東京のダイエー本部では、川上潔部長が本社バイヤーの意向も聞かないうちに全品を返
品した。もと自分の部下であった今村バイヤーの面子を潰したのである。同じく神戸屋も疑わ
しきは販売せずと新聞報道のあった当日返品してきた。この問題は聞こえはいいが仕入という
業務を責任もって果たしていない。新聞の明確な裏付けもない報道で「疑わしきは返品」と安
易な解決は製造者、問屋に大きな負担をかける。風評による全商品を売場から撤去して返品す
れば小売業は責任から逃れる。
アフラトキシン問題は日本の総合商社の怪しからん仕業であった。アメリカFDAの検査でア
フラトキシンの発生を発見し直ちに家畜の飼料にするようにと決定されていたものであった。
それを一部上場の総合商社が日本へ輸入し全量を食品原料としてソントンへ販売していた。ソ
ントンのピーナツバターは全品回収されたことは言うまでもない。ソントンこそいい迷惑で大
きな信用失墜という被害を蒙った。マスコミの総合商社の非を責める報道は一切なかった。
この一件で私は多くのことを学んだ。マスコミのセンセーショナルな暴力的報道、総合商社の
無責任で商業道徳に反する行動、これらに対する世間の無関心。この不条理な出来事が私を変
えたと言っても過言ではない。功罪相半ばする総合商社の罪の部分に対してその後ずっと戦い
続けた。
この時代、三越もダイエーもまだ捨てたものではなかった。私の不躾な三越仕入部の話で返品
を思いとどまった今村バイヤーは尊敬に値する。「チョコレートからウジ」と報道した朝日新
聞の社会部デスクに対しては日本チョコレート・ココア協会が新聞記者の無能ぶりを責めたて
た。社会の公器といわれるマスコミの社員の驕りは鼻持ちならない。総合商社の社員も同様で
ある。
<つづく>
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