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新会社とオリムピア製菓

投稿日: 2009年1月25日

新会社とオリムピア製菓    
この同床異夢の複雑な内情を持つ会社の社長を引き受けたファースト製菓の社長、巴温次郎はバランス感覚に富んでいた。私の心を事前に十分読んでいた。就任後まもなく関西にきて日本チョコレート大阪営業所の社員とそば屋で会食をした。席上東京のセブンイレブンと忠実屋、さらに彦根の平和堂の口座を日本チョコレートに譲渡することを言明した。株主とし て初めての申し出であった。それは1973年6月のことであった。

地獄で仏にあったようなものだ。平和堂の社長夏原平次郎の呼びかけで日本流通産業株式会社の設立準備会が開かれようとしていた時期のことであった。ライフ、近商ストアはオリムピア製菓から引き継いだ口座があったが平和堂の口座の提供はありがたかった。最初オリムピア製菓から持ってきた口座はダイエー、サカエ薬局、灘神戸生協、近商ストア、ライフ、イズミヤ、いかりスーパー、大丸、三越、山星屋等があったがこのころスーパーマーケットの共同仕入機構が日本中あちこちにできていた。 先にも書いたが日本チョコレートを設立したときの趣旨は組合員が原料の共同加工だけではなく流通菓子を製造している組合員が共倒れにならないように販売ルートを一本化しようというものであった。共販会社の言い出しっぺは芥川製菓であったが、同社はスーパーマーケットの口座は提供しなかった。他の組合員も彼に倣った。芥川製菓は専務を日本チョコレートの経営に参画させた。販売する口座がないので結局は債務超過寸前までの赤字に陥り第1回目の整理をしたことは先に書いた。そこでオリピア製菓が販売口座を提供し私以下4名がこの組合事業に参加したことも書いた。 ダイエーのPBをつくりようやく経営が軌道に乗りだしたところへ起きた内紛による再度の会社整理であった。この新会社にはオリムピア製菓の株主としての参加が認められなかった。世間から組合事業の失敗だと騒がれマイナスの風評を打ち消すのに営業現場は躍起になっていた。日本チョコレート工業協同組合の後ろ盾を失って経理部門もほころびの出ないように風評被害を抑えるのに懸命だった。このようなところに新社長から新しい口座の提供があったので日本チョコレートは世間に対して協業化が引きつづき進行していることを印象づけることができた。

その後のオリムピア製菓について言及しよう。1971年に神戸風月堂のOEM製品の神戸ピアーつづいて、ゴーフレット、チョコレートパピヨットと年を追うごとに製品ラインが広がりオリムピア製菓の生産は波に乗った。これは何よりも神戸風月堂の下村社長の暖かい裁量によるものであった。そして彼の大いなる期待に応えられたのは、オリムピア製菓にチョコレートを本格的にハンドで製造できる職人がいたなればこそ可能であった。

話は1940年代に遡る。戦後、大阪でチョコレートといえばボギー製菓かチョイス製菓であった。
前者は日本人の器用さを生かした道具とハンドで戦後最も売れた棒チョコと割チョコを
大量に供給して市場で大きなシェアをとった。後者は日本チョコレート工業協同組合の輸入枠
で輸入したカカオビーンズをクーベルチュールに加工する工場をつくり関西のチョコレートメーカーに原料を供給した。 ボギー製菓の工場長であった大久保収三が定年後彼の住居がオリムピア製菓に近いという理由で再就職先にオリムピア製菓を選んだ。彼は私がスイスのリンツの工場で見たシュプリュングリと同じような製造ラインと補助道具を自力でつくった。彼は自ら溶接もでき電気回路にも通暁していた。オリムピア時代のパリッフェの技術が生き、ゴーフルを6等分に切り分けるカッター(マシーンではなくツールと呼ぶべきもの)を制作した。これがゴーフレットの製造に役立った。おなじくパリッフェの技術で巻き煎餅の中にフィリングを詰めるデポジッターも器用につくった。

後に江崎グリコのコロンのプロダクトマネージャーがこのチョコパピのデポジッターを
見て参考になったと感心した。しかし工場は工場長の器用さだけで動くものではない。
そこにある道具や機械をあるべき姿で管理し、
毎日の作業で最高のパフォーマンスを発揮できるようにメンテナンスを行わなければならない。
機械のタイミングがずれて調子が出ないとき素早く調整しなければならない。
オリムピア製菓はこの分野でも幸運に恵まれていた。金の卵と呼ばれた時代に鹿児島から集団就職
した一人の天才少女がいた。個々の道具や機械をこころから愛しみ、個々の機械のクセを
つかみ常に調子よくパフォーマンスを発揮させた。包装機などはその包装機メーカーの社員が
彼女のタイミング調整に舌をまくほどであった。

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