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V革(V字改革)のあと(4)

投稿日: 2009年3月15日

V革(V字改革)のあと(4)

1982年、ダイエーのPB、バターボールが味覚糖のものに酷似(商標権侵害)しているとし
て味覚糖から内容証明便がきた。この問題を解決しようと味覚糖に行ったとき大変なおみやげを
もらった。商標権侵害問題はそこそこにして味覚糖から次の新製品の構想を聞かされ、あげくの
果てその新製品、ピアピアのコンセプトづくりから製品化までを手伝うことになったのだった。
この商品はモロゾフ製菓のスイートランドのコンセプトと同じものだったから味覚糖は日本チョ
コレートを意図的に利用したかも知れない。詳しくは後述する。

1983年、江崎グリコのクリスマス・ブーツを請けた。1972年からクリスマス・ブーツに
ついてはヤマザキナビスコのブーツで腕を磨いていたのでダイエーの御用達問屋の鶴橋製菓や
清水玩広の赤ブーツや銀ブーツと競合しないプラスチックのブロー成型ブーツを納入していた。
だが、当時の商品部の威嚇的な取引で何故チョコレート屋がクリスマス・ブーツを供給している
のか。この商品は鶴橋製菓に帳合を変更しろとあっけなくカットされてしまった。この様子を背
後からみていた江崎グリコ株式会社の千布清常務がその日のうちに日本チョコレートにダイエ
ー担当者、川口浩を伴って来社した。ダイエーの商品を切られた分でグリコのブーツを作りませ
んかと誘ってくれたのだった。江崎グリコ株式会社との取引はこうして始まった。

同年、明治製菓の子会社、ロンドの「おーいお昼だよ」という隠れたヒット商品があった。小さ
な弁当をかたち取った菓子である。この弁当のおかずに小さい鯛(1個4グラム)の部品を供給
した。薄いプラスチックシートに魚のモールドを30個つけチョコレートを流し込みそのまま納
入した。チョコレートに直接触れないので指紋もつかず喜ばれた。飛びこみセールスでとった注
文であった。仕入の課長、伴正次郎は要領の分かった日本チョコレートを直ちに信用してくれ、                         1ロット、1トンのトライアルオーダーをくれた。ロンドの社長はもと明治製菓大阪支店の支店
長、小野泰弘でダイエーの商談席で無理な要求に怒りくるって退席した誉れ高い人であった。

1986年当時のバレンタインはソニープラザが次から次へとヒット商品を飛ばしていた。ソニ
ープラザの社長、東信彦が陣頭指揮でアメリカのブラウニークッキーを焼いたりして活気溢れる
数寄屋橋店であった。私は誰かに紹介をしてもらってセールスをかけるのを好まなかった。問屋
との同行セールスも嫌であった。常に飛びこみセールスで新規開拓をした。ソニープラザも飛び
こみだった。しかしそこには昔から一手にテディーベアやトンカチチョコレートを供給する業者
がいた。そこは日本チョコレート工業協同組合の芥川製菓も絡んでいることが分かった。
そこでソニー・クリエイティブ・プロダクツに飛びこみをかけた。当時私はインフォジャパンの
事業を通してコンピュータ通信に夢中になっていたおかげで仕入の課長と話があい運良く口座が
とれた。

バレンタインチョコレート、12種類を開発することになった。ソニークリエイティブ
にとっても初めての挑戦であった。百貨店やスーパーの商品開発とは全く異なっていた。開発の
担当者は女性であった。常々女性向けの雑貨や化粧品のデザインを手がけている人だった。目に
見えないところに徹底的にこだわる。食品や菓子のデザインとは違った。取引は2年しか続かな
かった。しかしそれまでの発想と全く違う商品開発の手法が手に入った。雑貨、化粧品が中心の
品揃えとチョコレートでは配送時の温度管理が違った。チョコレートは冬といえどもトラックの
荷台にバラ積みは厳しい。ここでパソコン(ソードのPIPS)の実際的な使い方について多く
の実験をした。まだエクセルもワードもないころである。12種類の品目の標準原価計算書に基
づいてオーダー数を入れると部品展開したそれぞれの部材の必要量、売上、粗利の合計を計算し
てプリントアウトする時間は6時間以上かかった。帰社するときに計算命令を出し翌朝出社した
とき結果がみられるという代物だった。このシミュレーションはダイエーのPB開発の時大いに
役だった。

1987年、大学時代の同窓生、長瀬産業の輸入担当次長、堂野前進から電話がかかって来た。
「ノイハウス」というチョコレートを知っているかと。知っているよ、と答えると、堂野前は、
さすがはチョコレート屋だな、としきりに感心してくれた。この1本の電話から私のチョコレー
ト人生が変わることになる。インフォジャパンの仕事は土曜日、日曜日だけの仕事であったがノ
イハウスの日本進出という提携がらみの仕事については日本チョコレートの経営に支障がでるか
もしれないと内心忸怩たるものを感じた。

ダイエーが中抜きを次々実行するのを見るにつけ看過していると、日本チョコレートの経営はい
ずれ行きづまると切迫した思いがあった。さらに東京産業の傍若無人の振る舞いに多くの組合員
が眉をひそめていた。ダイエー商品部の暴走を外部から誰もとめることはできない。HOCの一
階カフェで早朝中内功と中内潤の親子が朝食をとる姿がみられた。しかし中内潤が商品部の部長
にすわったとき、その取り巻きはこびへつらいの人々であった。早晩、V革以前の状態にもどる
ことは誰の目にも明らかだった。

HOCの売場は社長のお膝元だけに対面販売の食品のギフト売場やアパレルの売場まであった。
写真の1時間DPEサービスは大きな自動ラインをいれていた。ランドリー、旅行代理業(朝日
海外旅行)の窓口までそろえ当時としては体裁の良い売場であった。しかし既存店の菓子売場は
100円均一が一般化して荒廃するばかりであった。これらの現象はひとりダイエーだけではな
かった。ジャスコや西友も大同小異であった。売上と表面上の粗利だけに目がいって肝心の商品、
よい商品はなおざりにされた。V革まではPB商品を作る場合最終決裁者は社長であった。V革
以後は組織が変わった。安かろう悪かろうというあからさまな評論がマスコミに書かれるように
なった。

よい商品にこだわっていた私には価格追求にのみ熱心な商品部の政策と相容れなくなっていた。
お菓子の家、クローガーハウスのような夢のある商品もあったがレギュラー商品は価格だけの競
争に明け暮れていた。マルA特売の乱発はレギュラー価格が何であるかが消費者(このころダイ
エーでは生活者と呼んでいた)には分からなくなって特売価格がレギュラー価格になっていった。
レギュラー価格ではものが売れなくなった。明らかに消費者の購買動機が変化していたが、既存
店の店舗をトポスに業態変更して安売り路線を社長以下みんなが信奉していた。私はバイヤーを
紀ノ国屋やいかりスーパーに案内して「よい品」について討論した。しかしこのような努力は徒
労に終わった。全国展開するナショナルチェーンストアに対しては私の意見などは書生論
に過ぎなかった。

ダイエーがいくら大量に販売するといっても加工食品の単品ベースではそれほど大きくない。工
場の生産ロットはつまるところ単品を3直(スリーシフト、昼夜3交代)で5日間生産して全量
を引き取れば価格は合理的に安くなる。しかしそれだけの販売力は菓子に関するかぎりなかった。
私はダイエーとの取引を見直すべく活動を始めた。電通を辞め商品開発のコンサルタントとして
名をはせていた井上優や矢野経済研究所が主宰するライフスタイルマーチャンダイズのヨーロッ
パ旅行には後のモロゾフの社長になる松宮隆男とともに積極的に参加した。

この項おわり

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