投稿日: 2009年3月29日
ピエロの嘆き(2)
このような落胆はその後もつづいた。この後、味覚糖lの「ピアピア」を手がけることになる。社
長、山田酉吉は熱心な「生長の家」の実践者であった。私は中学校時代から松屋町の問屋街に集
金に行っていたが、彼は私を可愛がっていたようだった。すでに実質的な経営は長男の一郎に任
せていた。こちらはダイエーの商品政策に従い心ならずもバターボールの真似商品を作った後ろ
めたさがあった。ダイエーの商標侵害についてどう対処すべきか内心おっかなびっくりで松屋町
の本社を訪れたのは1977年12月だった。
ことはダイエーのそっくり商品、バターボールの商標権侵害に対する苦情処理に行ったときから話は始まる。そっくり商品の苦情についてはR&Dのチーフ、高瀬幾之助が応対にでてきた。彼はダイエーとうまく話をつけデザインを変更するようにと要求した。その解決方法はすべてこちらに任せると言う。内容証明文の調子と随分隔たりのある軟らかなトーンであった。拍子抜けしているところに当時菓子業界きっての若手経営者とはやされていた専務の山田一郎があらわれた。彼は開口一番私のダイエーにおける日ごろの活躍を褒めそやした。私も高瀬もあなたの高校の後輩なのですといっておもねるような態度で話した。そこには油断ならぬ雰囲気があった。
彼はチョコレートとキャンデーのアソート商品を企画しているので知恵を貸してほしいと。
コンセプトづくりから製品まで高瀬と相談しながらやってくれと要件を言っただけで会見はわずか10分位で終わった。 気持ちの整理がつかぬまま高瀬と話しだした。彼は自分の母親が経営している料理屋「花村」の話題から切りだした。いつも先輩のことは母親から聞いています。「花村」は私がいつもお客さんを招待する割烹であった。私は彼の母親が「花村」の経営者であることは全く知らなかった。私は彼女が「花村」を経営する以前から知っていた。私が25歳のとき青年会議所のメンバーとして初めて北新地の料亭なるところを訪れたとき、てきぱきと切り盛りしていた仲居頭こそその人であった。山田と高瀬が高校の5年後輩であることすらも知らなかった。山田が慶応、高瀬は早稲田。高瀬が卒業後シーベルヘグナーに就職した後味覚糖へ転職したことをこのとき知った。
[花村のおかみが高瀬の母親であったとは!自分のふところの甘さを痛感した] 話はそこからチョコレートのモールドを一から起こす手順のこと、アルミフォイルでチョコレートをブラッシング包装する機械のこと等、様々な話題で2時間ほど話しこんだ。最後にはピアピアを作る有力な協力工場として日本チョコレート工業協同組合のメーカー、東京産業、芥川製菓、ファースト製菓、平塚製菓、オリムピア製菓、アウトサイダーとして東京の冨士高フーズ、大阪のチョイス製菓、神戸のライラック製菓、シンセイ食品工業、を推薦し、できるだけ早い時期に工場見学の手配まですることを約束させられてしまった。
それからは三日にあげず味覚糖通いが始まった。同じメーカー出身のものだけに新製品の仕様に目鼻をつけるのは早かった。モロゾフのスイートランドというターゲット商品があるのでこれを換骨脱胎する作業である。私自身としてはミイラ取りがミイラになったようですっきりしない毎日であった。バターボールを真似たものを呼び、山田流にいえばまねの上手なものにモロゾフのの商品をまねする仲間に引きずりこまれたわけである。私は内心恐れていたのだが、このプロジェクトに対するモロゾフの苦情は公式にはなかった。
20万個のテストセールを気候の悪い初夏に実行した。これは従来のチョコレートメーカーの発想ではありえない選択であった。純チョコレートでは初夏の気温(25℃以上)なら表面が溶け白くブルームが起きる。ミルクチョコレートに3%以上の植物油脂を混入すればブルームが起きにくい。日本では流通菓子のチョコレートには植物性油脂の混入はあたりまえのことになっている。したがって初夏のテストセールについてはこちらの危惧する声を無視して商品を出荷した。
味覚糖は問屋(誠商会)を併業しているのでテストセールは自分たちの目の届く範囲で迅速かつ正確に行える。 マーケットサーベイの結果この製品は全国展開することが決まった。初年度の売上は10億円を越えた。売上の目途がついたところで味覚糖は猛烈なコストダウンを実行に移した。まさに強引な方法でコストカットを迫った。その手法はダイエーとは全く違ったやり方であった。実にねちねちと時間をかけての交渉であった。1キロで5円とか10円単位でちまちまと値切ってくる。そのやり方は仕入担当者が考えたものではない。明らかに背後で山田一郎の影がちらついた。スマートな慶応ボーイとは思えない泥臭い名目(サンフラワー号を借り切って文化祭を行う)の協賛金の要求が製造部の購買からあったりした。 10億円の製品(1000トンとして)が動くと1キロで5円値切っただけで500万円違う。
20円値切ると2000万円違う。5%の割り戻しで5000万円違う。値決め交渉は3月から秋の一斉出荷(8月下旬)直前まで続く。同じアイテム製品(たとえば円盤型のチョコ)の見積書を製造可能な取引業者にすべて出させる。その最安値を基準に来る日も来る日も価格交渉が続く。合理的根拠があって値引きを要求するのではない。取引業者間の競争の中で恣意的に提示された最安値が基準になる。こうして業者間の疑心暗鬼をあおる。やがて製品は最安値にあわせるような品質に落ちていく。売り手と買い手の間には信頼関係は生まれず不信感がはびこる。味覚糖のデザインを受けていたアートディレクターから、聞いてはならないような不快な情報がはいる。彼は青年会議所のメンバーであった。メンバーゆえにマル秘情報をきくことができた。流通菓子の開発の舞台裏は美味しくなくても不味くなければ良いのだ。内輪の味に対するモニターがコストパーフォマンスにもとづいて味が決められるのである。 発売2年目には売上が20億円を超えた。
するとこの値引き圧力はますます強まった。菓子業界では単品で10億円を越える商品が生まれると、同じような商品が雨後の竹の子のようにあらわれやがて熾烈な価格競争がおきる。価格競争はまず流通(スーパー)の無理をきくことから始まる。無理をきかなければホされるかもしれない。この怖れから値が崩れていく。
この価格競争に勝つために下請け業者の納入価格を叩けるだけたたく。次に創業から何周年だといって周年協賛金をとる。社長就任記念の祝儀をとる。名目はいくらでもつけられる。無理をきかない取引先は取引を中止すると脅かしてもよい。そのような強引さは何も味覚糖だけに限らない。 生かさず殺さず、上手にやることがプロだと山田一郎は言って上手にやることを部下にも強要した。上手か下手かで判断されると自分のアイデンティティが否定されるおそれがある。已に正直なものにとって社長の方針と異なることを実行しなければならないとき自分の信念をとるべきか、生活のため自分の信念を曲げるかで心の葛藤に苦しむ。大学を出て自分の青春をかけせっかく部長にまで出世しながら私が味覚糖に通っていた間に辞めた好青年が2人いた。苦労をともにした前途有望の青年が辞めても非情な神経で耐える。この非情さこそが経営の極意であると言ってもいい。 値引き要求を呑めなければプロジェクトからおりるかどうかで脅迫する。このような脅迫はどこの企業も似たり寄ったりである。2年目より3年目とコストダウンの要求は強まった。
3年目には日本チョコレートに落ちる帳合料が惜しく中抜きを行った。日本チョコレートが仲介したすべてのサプライヤーが中抜きの対象になった。中抜きのなかにはメーカーを切って自社生産に切りかえたものまである。ダイエーが行っていたヨーロッパからの部品(大量生産しているチョコレートに狙いを絞って)輸入する手法も自らの手で行った。最後まで残ったのは経営状態が思わしくない東京産業だけだった。東京産業はまだ私を必要としていた。 途中で起きた諸々の事件は省く。思いだすのも苦痛だ。最初無から始めて井戸を掘る。最初は濁った水がでてきて苦労する。やっと澄んだ水がでてくるともうおまえは必要ない、澄んだ水は俺がのむとばかりどかされてしまう。人呼んで「井戸掘り屋」という。 コストダウンには限界があるものだ。コストダウンを徹底的に納入業者に迫るということはその商品が市場で受けいれられたと確信したところから始まる。もちろんコストダウンを迫られ、要求通り合理的に応じられるような改善がサプラヤー側で成功すればウインウインで問題はない。
過度の要求は要求する側にも心理的な圧力がかかる。製造担当者はこれ以上値下げを要求すると質が落ちることを心配する。しかし一端ピアピアというブランドが確立して商品が売れだすと経営者は容赦しない。 このような経過はどの業界でも同じであろう。長らくヨーロッパで仕事をしたが同じような話はどの国でも珍しくない。資本主義における利益追求の行きつくところは食うか食われるかの競争の中で行なわれる。きれい事ではすまない。傷ついたものは舞台から消えるのみである。
<つづく>
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