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ピエロの嘆き(4)

投稿日: 2009年4月12日

ピエロの嘆き(4)

菓子は事業者も多く資本の論理だけで自由にコントロールできるものではない。1978年にノイハウス・モンドースを買収しクード・ポンスレー(Claude Poncelet)はノイハウスをどのようにしたかったのか彼が亡くなってしまった今となっては不明である。彼は1986年ノイハウス・モンドースをティーネンシュガーに売却して莫大な金をにぎった。少なくとも彼はチョコレート職人であってチョコレートを愛していたことは確かだった。彼はノイハウスを世界ブランドに発展させるために大企業に売却したのかも知れない。1987年3月、堂野前進にノイハウスから派遣されたダニエル・アーノルドを紹介されたことは前に書いた。その後私はアーノルドと日本でノイハウスを立ちあげ、事業展開をすすめる手順についてファックスでやりとりを始めた。

1988年11月私はベルギーに行きノイハウスジャパン設立に関して、日本におけるノイハウスの専売代理契約書をティーネンシュガーと交わした。契約した場所はティーネンシュガー本社だった。それはヨーロッパらしく歴史を感じさせる建物であった。午前の会議が終わると本社内にある食堂でランチをとった。日本でこれほど素晴らしいランチを供する会社があるかどうか寡聞にして知らない。契約書の読み合わせにはポンスレー兄弟も出席した。読み合わせが終わって契約書にサインした。このとき自分が受けた印象は歴史の重みを感じる雰囲気に呑みこまれていた、と同時になにか誇らしいような高揚した気分になっていた。国際的ビジネスに何の知識も経験もなかった私はこれから自分が扱いたかったチョコレートを日本で販売できるのだという満ち足りた気持ちでサインした。イノセントという言葉ぴったり、ようするに間抜けであった。

サインしてしばらくアーノルドからは音沙汰がなかった。この間にティーネンシュガーがアントワープのユダヤ系投資会社、RTホールディングに買ったばかりのノイハウスを売却したらしい。おめでたいことに私はこの重要な事実を1990年1月10日まで知らなかった。ダニエル・アーノルドも私に事実を伝えようとしなかった。チサングループとRTホールディングが設立した日本ノイハウスが唐突に1月16日からノイハウスジャパンの経営を引き継ぎたいので私にすぐ会いたがっているとアーノルドから電話がかかってきた。1月10日の夜10時まえのことである。指定された帝国ホテルのロビーに着いたのは11時をまわっていた。

私はアーノルドに会うなり契約書があるのに一体これはどういうことなのだと、息まいた。彼はRTグループの一員で詳しいことは分からない。あなたの憤りはもっともだが、自分は本社から命ぜられたことを忠実にやっているだけである。あなたのチョコレートに対する情熱は高く評価する。店舗開設までのあなたの努力と実行力は尊敬する。本社にできるだけのことはあなたのためになるよう交渉する。決定されたことは決定されたことだ、とらちがあかない。

当時、日本・ベルギー協会の会長は本田宗一郎であった。例会の席でこのことを会長に相談したところ彼も同様に怪しからんと言って、これからすぐベルギー大使館に行こうとわがことのように憤り大使館に直行した。ベルギー大使館では商務官の小堀公二は人当たりこそよかったが、これは民事案件だから大使館はコミットできないとていよくかわされた。

本田宗一郎は親切にも腕利きの弁護士を頼んで争えと忠告してくれた。当時私はモロゾフのイタリア駐在員でバリトン歌手であった小嶋健二の後援会の世話人であった。彼はイタリアを中心に活躍していた気鋭のバリトンの歌手で、彼が藤原歌劇団に招かれ日本で歌うときにはモロゾフが後援していた。その後援会に椿康雄という外事弁護士がいた。そこで私は彼にノイハウスとの間に交わした契約書を見せ相談した。契約書を一瞥した後、彼は驚くほど多額の着手金を要求した。

驚いた私は高校時代の同級生の弁護士に相談した。彼いわく、外事弁護士は勝ち目のないような係争でも勝つ、勝つと言う。やらせてみると高くつくだけで滅多に勝つことはない。本件は相手がチサングループやユダヤ資本のRTグループであるから裁判に持ちこんでも勝ち目はない。裁判をやるとなればブリュッセルでやらなければならない。着手金の金額でびっくりするようでは裁判などできるわけはない。悪いことは言わない、やめておけ、と。そもそも契約書というのは契約を破棄するきのための手順を予め決めておくようなものだ、と彼は涼しげにいった。

ティーネンシュガーと契約を結んだと思っていたらいつの間にか相手がRTホールディングにすり代わっていたのである。同級生は高校時代、水泳部にいて、東大に入ると今度は柔道部にはいった。卒業後弁護士になると、東京海上火災の顧問弁護士になったようなやり手であった。なによりも高校時代、同じ運動部仲間だったことが私をしてこの問題を直ちに手じまいさせたと言っても過言ではない。これから仲よく仕事を一緒に始めましょうと契約を交わすときに決別するときの手順を決めておくのが契約書だと知って、頭に強烈な一撃を食らった思いであった。彼はいった、外国人とは紳士協定でやっていけ、ジェントルマン・アグリーメントやで、と。こころの中は煮えくりかえる思いであったが裁判に費やす金はなかった。後にベルギーで裁判にまきこまれたが簡単に敗訴した。

クロード・ポンスレーはチョコレート職人であった。しかしその後のオーナーたちは金を儲けるためにノイハウスを売った買ったの連中である。日本側についても同じことが言える。チサングループは本来チョコレートとは関係のない企業である。なによりも金が目当てだ。売上の面でチョコレートは季節変動が激しい。素人には温度管理が面倒で手に負えるはずもない。何回もオーナーが代わりノイハウスのブランド価値は著しく下がってしまった。そして私はと言えば「井戸掘り屋」からピエロになった。海外との取引はこんなにタフなものと知って、その後は何をやるにも世界でも一二を争う弁護士事務所、ジョーンズ・デイと相談することにしている。

イタリアのアパレル業界には、インパナトーレと呼ばれる仲介業者の集団がある。彼等の存在はフランスのオークトチュールから大切に扱われている。日本チョコレート、ベルジャンチョコレートはこれと同じ機能をもっていたにもかかわらずいつも痛い目にあっていた。オリムピア製菓時代から前田製菓、田辺製薬のOEMをてがけ、日本チョコレートに出向後はダイエーのPBづくりと様々な商品づくりにたずさわった。おかげで、プロジェクトの立ちあげから、プレゼンテーション、テースティングサンプルを含むモックアップの制作、製造段階における品質管理、生産管理から出荷までのPERTを実行して、売場で陳列するまで、3ヶ月あればなんとかできるようになっていた。味の設計、原料、包材に通暁した人材、その他の資材業者、アセンブル業者を動員する方法や、それらを動かす知恵、技術をいつの間にか修得できていた。

日本では、ノウハウは取引をしてやるからサービスとして無料で提供せよといわんばかりである。ノウハウに対して欧米のように正当な評価をしない。フランスのオートクチュールはこれこれしかじかの製品、XL,L,M,Sとりまぜ300着を3ヶ月以内に納入してほしいとイタリアのインパナトーレに注文する。インパナトーレは、製糸、染色、機織り、皮革、毛皮、羽毛、ボタン等の材料業者、加工業者を招集してPERTを作成する。PERTにもとづく臨時のプロジェクトチームが編成され、これをインパナトーレは管理、進行を指揮して納期までに300着を納品する。最適、最高のチームづくりができるインパナトーレが重用されるのは当然である。「ミラノファッション」はインパナトーレたちの実績の集大成とみて間違いない。日本では便利屋、立ちあげ屋、井戸掘り屋としての地位しか与えられない。

<この項おわり>

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