投稿日: 2009年5月10日
ニューヨークのバレンタイン(1)
バレンタインデーという言葉を知ったのは1952年のことであった。紫斑病が重篤な容態にな
り町医者の病院から阪大付属病院に転院したとき、ニューヨークのブルックリンに住むセルマ・
フォイゲンバウムという女子校生のペンパル(pen-pal = pen-friend)からバレンタインカード
をもらったときである。そのころメル友という言葉はまだない。ペンパルである。このころバレ
レンタインの挨拶はカードの交換と男女間で花やチョコが男女双方からギフトとしてやりとりが
あったようだ。
1953年のバレンタインからオリムピア製菓は近鉄百貨店の阿倍野店、上本町店で販売を始め
た。仕入の課長にアメリカから送られてきたバレンタインカードを見せて採用してもらった。当
時バレンタインデーのための特別販売(特売=セール)はどこも行ってはいなかった。一般消費
者もバレンタインという言葉の意味も知らなかった。実際バレンタインの商品はそれほど売れず
毎年返品の山に頭を悩ませた。
バレンタインの催事が一般的に知られるようになってきたのは週刊誌や月刊誌の特集記事(アン
アン、ノンノン、マガジンハウス、バンサンカン等)がとりあげ、それに応えるかのようにソニ
ープラザ数寄屋橋店、百貨店問屋の松風屋、サンリオ等がこのイベントを盛りあげて以降のこと
で、バレンタインのイベントが全国津々浦々のスーパーにまで広がったのは1960年代の後半
から1970年代になってからである。日本は不思議な国である。バレンタインセールが盛んに
なってくるとバレンタイン屋が出現した。バレンタインセール(通常2週間)だけで食っていく
会社が雨後の竹の子のように現れたことである。
バレンタイン屋は激しく競争を繰りかえし淘汰されていった。ロマンチカ、セブン、アラカルト、
ワンダーランド、等々。日本の消費者もまた不思議である。日ごろは賞味期限や原材料について
厳しい目を光らせているがバレンタインセールには「見た目」に「カワイイ」という視点だけで
商品を選んで涼しい顔をしている。バレンタイン屋はここにつけ入ってとんでもない商品が売場
に溢れだした。こんな無節操な国はない。
バレンタイン屋はメーカーでない。日本の菓子問屋は儲からないので自力で販売できないメーカ
ーに自社仕様の製品を作らせ自分たちは得意とする販売に専念する。流行のデザインでパッケー
ジをつくり、箱と製品を包装加工所に納めさせて製品化する。加工所のなかには加工費をたたか
れ内職に出すようになる。衛生基準のない家庭内職でつくらせるのだ。魅力的な包装紙に包まれ
色鮮やかなリボンをつけられると消費者は目が見えなくなるらしい。ほんとうに愛している人に
贈るものは多少吟味するが「義理チョコ」が一般的になると選択眼が鈍るらしい。要はチョコレ
ートらしければ何でもよかったのである。
もちろんバレンタイン屋だけではビッグなバレンタインセールは成り立たない。このイベントだ
けでバレンタイン屋の経営を成り立たせるようなビッグイベントになったのは、いわゆる流通菓
子の大手企業も参加し、チョコレート業界がこぞってバレンタインセールを盛りあげていったか
らである。明治製菓はアステカブランドを立ちあげ流通業界のイベントに積極的にコミットした。
しかし良心的な商品づくりをすればするほど利益確保は困難である。株式会社アステカは西武か
らマキシム・ド・パリを買収して現在も健闘しているが明治製菓という後ろ盾がなければ存続は
無理であったかも知れない。バレンタインデーに女性から男性にチョコレートを贈る習慣は日本
だけの現象である。これは海外のメーカーから見ると異様に映るらしい。
悪のりチョコがのさばりだして本来のチョコレート業者が眉をひそめだした。エロティックなチ
ョコやウンチチョコのような極端なものまであらわれた。真面目なチョコレートメーカーはせっ
かく盛りあがったイベントが台無しになるのではないかと危機感をつのらせた。バレンタインだ
けではない。ダイエー、イトーヨーカ堂、ジャスコ、西友の熾烈な販売競争、否、叩きあいが続
くなか悪のりチョコが流通菓子のなかにまで侵入してきたのである。
仕事がら私はツタガワアソシエーツの季刊誌「ニューヨークスタイル」の定期購読者であったが、
年初に発売された、マキシン・ブレイディー著の「ニューヨークベスト200店」(ツタガワ・
アンド・アソシエーツ)を読み、未来の日本がニューヨークに行けば見えるのではないかと思っ
た。商品開発の充電をするためと、本場のバレンタインセールに直接触れてみたくなった。会社
には女房を連れて行くので休暇届をだしてニューヨークへ飛んだ。
1983年2月10日(木)、(株)ジェットツアー企画の格安の旅行商品を買った。価格は2
人で13万円ほどであった。パン・アメリカン航空800便で18時40分に大阪国際空港を出
発、成田空港経由で日付変更線をこえ、同日の20時ニューヨーク、ケネディ空港に到着した。
21時半、シェラトンセンターホテルに投宿。
2月11日(金)朝、9時、東京ツアーズの柴田社長の案内でマンハッタン島を一周。自由の女
神を訪れた時の気温は華氏28度(摂氏マイナス2.2度)。昼食後、40数年ぶりという猛吹
雪と大豪雪がマンハッタンを襲った。雷鳴がとどろき、ラジオは外出禁止を報道していた。夜に
は積雪20センチを越えた。それにもかかわらずソーホー、グリニッジヴィレッジ、ブルックリ
ン、ハーレムを柴田社長の案内で見てまわった。
そして柴田社長は車を運転しながら彼のニューヨーク観を解説した:ニューヨークの日本商社の
駐在員の年収は約25000ドル。30~40歳で3万~3.5万ドルほどである、と。ニュー
ヨークの居住者の20%が黒人で、そのほとんどが公務員として働いている。イタリア系が16
%でレストラン従業員、ビルの建てかえ労働者、魚市場の勤労者。プエルトリカンが16%、第
2次世界大戦後、合衆国は多くの移民を認めた。清掃夫のようなきたない仕事をアメリカ人にさ
せたくなかったためで、これはアメリカの第2のミステークと言われている、とも。日本人が約
5万人。人種差別問題について多くのことを聞いた。
アッパーイーストサイドに住んでいる人たちの年収は最低10万ドル以上である。ポーランド等
の東欧から移民してきたユダヤ人たちがニューヨークをつくったと自負している。祖国を持たぬ
人たちによって建国された。その子孫たちがニューヨークの高級住宅地に居住している、等々。
欧米の階層別社会と日本の均一的中流意識社会の違い。WASP(ホワイト・アングロサクソン・プ
ロテスタント)が巾をきかせる社会。ニューヨークの白人は35%ほどしかいない。ニューヨ
ークに働く勤労者の年収の違いは8000ドル~25万ドルと桁違いに大きい。日本で働いてい
る勤労者の年収は最高でも3000万円くらいで平均は420万円、と極端な格差がない。
<つづく>
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