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「ナショナルブランドとプライベートブランド」(5)

投稿日: 2010年1月3日

「ナショナルブランドとプライベートブランド」(5)

私の高校時代、大学時代は学生運動がさかんであった。わが北野高校の学内にもアジトができた。学生の一人一人に共産主義者かブルジョアかのレッテルがはられた。高校の多くの仲間が吹田事件にかかわった。私はもちろん資本家の息子ということでブルジョアのレッテル。そんな中で「流通革命」というスローガンを掲げて中内功がダイエーの第1号店を開店した。1957年9月23日にダイエー千林店は千林商店街で呱々の声をあげた。今思いだすと、このような他愛もない流通革命という言葉に胸を躍らせてはせ参じた若者がいかに多かったかを奇妙な気持で思い返す。これも時代の波であった。1969年1月、中内功の『わが安売り哲学』(日本経済新聞社)が発売された。これを読んで私はオリムピア製菓から日本チョコレートに出向する決心を固めた。そんな中で私が出会ったのが民青と中根千枝の『タテ社会の人間関係』であった。

オリムピア製菓がどのようにして株式会社日本チョコレートと結びついていったのかは先に詳しく述べた。私もダイエーも民青に手をやいていること、中根千枝のタテ社会を持ち出して日本チョコレートの改革についてオリムピア製菓がいかに協力できるかを葛野友太郎に直訴した。彼ならば私の熱い思いを心情的に理解してもらえると思ったからだった。しかし彼はそんなことは一切目をくれずダイエー、灘神戸生協、イズミヤ、サカエ薬局等の口座と売上げだけを評価する現実主義者であった。

味覚糖の「ピアピア」が最初問題になった。ついでダイエーの「バレンタインカードチョコ」が問題になった。日本チョコレートの取締役会長から日本チョコレートの取締役社長あてに内容証明便が送られてくる。あくまでも筋を通す人であった。「ピアピア」についてはモロゾフと同じような商品を売っているメーカーはたくさんある。「ピアピア」に販売中止を求めるなら同類の商品全てに同じような要求を出してほしい。「クリスマスカードチョコ」、「バレンタインカードチョコ」(ハートチョコをクリスマスカード/バレンタインカードの表面に張りつけたもの)については次の年からは販売を中止することで話がついた。

ここで問題になった商品、「スイートランド」、「クリスマスカードチョコ」、「バレンタインカードチョコ」はモロゾフの長寿商品である。このほかに「アルカディア」、「チーズケーキ」、「プリン」などロングセラーが多くある。単品について考えればそれほど大きな売上金額にはならない。しかし大切なのは毎年確実な売上予算がたてられる柱になる商品だということである。モロゾフの社内報 “SEPIA”に「小さなシェアのなかで大きなシェアをとる商品」を開発することとある。単品で50億円の商品よりも20億円を確実に売り上げる商品を5品目もつ方が経営的見地からみても安定していることは言うまでもない。そして何よりもこれらの商品は店頭で見ただけで「モロゾフ」の社名が浮かぶ。これが彼の言う菓子の文化である。

なかなか本題にたどり着かないが、我慢をしておつきあい願いたい。葛野友太郎が亡くなったときの社内報“SEPIA別冊”を石原建男(当時常務)から贈られてきた。そのなかに葛野友太郎の「セピアいろはカルタ」がある。その中の「に」の項目は「日々が3万回で一生だ」。「と」は「倒産の可能性忘れずに慎重に」。「よ」は「ヨーロッパに学ぶべきものあり、真似るべきものなし」。「や」は「病を嘆くな、早く治すことを考えよ」。「あ」は「あやまちを二度くりかえす愚かもの」。「せ」は「拙速が巧遅に勝ることも多い」。特にこの最後の巧遅について私は怒鳴られた。「おいしいもの、ほんまものをと、くどくど言っているばかりでは駄目だ。売れるものを早く出せ!」、と。極端に大声をあげて怒鳴られた。これは彼の得意のパフォーマンスであった。突然、大声を張りあげられると、みな一瞬ひるむ。こころが真空状態になる。そこへ次にどうするのかをたたき込まれる。彼のOJT(on-the-jobtraining)だ。怒鳴った後はけろりとして呵々大笑する。彼の照れなのであろうか。憎めない。私はそんな彼が大好きであった。

私が世話役をしていた日本チョコレート工業協同組合の関西青年会の講習会に講師として来て、「子曰誤而不改是謂過。子曰過則勿憚改」(子曰く過ちて改めざるこれを過ちという。過ちては改むるに憚るなかれ。)という論語の講釈を葛野友太郎がしたことがあった。うちの社長が論語の話をしたのは初めてだ、と松宮隆男がいぶかしげに言った。しかしこの言葉は、日本チョコレートの株主が度々同じような抗争をやるのをみて、その度ごとに子供を諭すようなトーンでこの論語を語り、私に後始末を優しく促した。彼にはプロパガンダもスローガンもなかった。偉大な業界の啓蒙者であった。しかし組合員は面従腹背の輩ばかりであった。彼は組合員の2世、青年会のメンバーに対して論語を語ったのである。

1950年代にタイムだったかニューズウィークであったか記憶が定かではないが、その表4にモロゾフの全面広告を出し、その雑誌そのものを百貨店のガラスケースの上に置いていた。私はそれを見て恐るべき広告手腕に唸ったことを昨日のように憶えている。

1960年代にモロゾフが森永製菓のチョコアイス(マル準チョコレート)を販売すると社会現象を起こしたように売れた。単品で20億円売れたとき葛野友太郎は松宮隆男営業部長(当時)を呼んで売上げを抑えるようにと指示した話も先に書いた。葛野友太郎はブーム商品を嫌った。堅実な売上げを目指した経営者であった。日本の大手製菓会社も全国展開のスーパーもバカ売れする商品が出てもそんなことを頓着する経営者はいない。

       <つづく>

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