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ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行 (4)

投稿日: 2010年2月28日

ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行 (4)

デルータからペルージャに着いたのは午後2時半頃だった。その頃のペルージャは中田英寿がセリエAのペルージャに入団する10年前で、日本人にとってペルージャは、まだウンブリアの州都くらいの認識しかなかった。私は先にも書いたように塩野七生がペルージャにある外語学校(Universita per Stranieri di Perugia)でイタリア語を学んだことを知っていたので特別の感情をもっていた。ペルージャも丘陵の頂上に築城された城壁都市である。ペルージャの中央駐車場に車を駐めるとエスカレーターで中央広場にでることが可能であるが、今回は「中世・愛の小径」の探訪である。下から徒歩で登っていく道を選んだ。

バスを降りるとゆるやかな坂道をかなりの道のりを登っていかなければならない。オリンピア製菓の副社長であった母は当時76才で心臓がよわく、ペースメーカーをうめこんでいた。たちまち息が乱れ皆についていけない。昼下がりのペルージャの裏道は深閑としていた。家々の窓から道を眺めている人はいなかった。行き交う人影もない。私はそっと母に「おんぶしてやろか」と言った。母はたちまち顔を真っ赤にして怒りだした。「なにを言ってるの、恥ずかしい。」、と。私は言った。「ほんなら、ゆっくり行こ」。100メートルも200メートルも遅れながら、私たち二人はゆっくりと道を登っていった。

まったく先頭の人たちが見えなくなったころ、一人の人なつっこいイタリア人が私たちを見て微笑んだ。モロゾフの仕入れ先、ジャピタリーエクスプレスの社長、トルリーニだった。彼はナポリ大学で中国語を学び、最初は台湾で商売を目論んでいたが、すぐに台湾に見切りをつけ日本へ来た。山口大学に籍を置き日本語を勉強した。もともと語学の才があり英語も流暢に話す。英語習得のためにロンドンの夏期講習に行ったときに知り合った日本女性がその後彼の奥さんになる。彼女が山口県、萩の出身であったところから、山口大学に学士入学したのだろう。ここで彼のことを書くひまはないので端折るが、この時の出会いからずっと彼と彼の家族とはつきあっている。テルニの山奥に住んでいるが、山を二つも、三つも持っていてそこで取れるトリュフを真空パックで日本に送りこんでいる。

彼と私たちはゆっくり坂道を登っていった。先頭の人たちはすでに、ペルージャ市街の中央大通り(Corso Vannucci)を一巡りしてペルージャの人たちが自慢するホテルブルファーニ(Hotel Burfani)で一服しようとしていた。テルニにもスポレートにも高級なブティックのある通りがあるがペルージャもまた然りである。イタリアの中世、群雄割拠していた城壁都市の街並みはどこでも同じようなその時代の面影を残している。ミラノやローマのような猥雑な風景ははい。まさしく「中世・愛の小径」がそこ、かしこにあった。

昨年、「ヨーロッパの食とギフトを学ぶ研修旅行」できたときには、モロゾフのミラノ駐在員の小嶋健二を知り、今回の旅でアウグスト・トルリーニ(Augusto Torlini)を知った。この二人との出会いが、その後私たちの家族に大きな影響を与えることになる。

昨年と同じテルニ郊外のホテル・フォンテガイアに到着したのは予定時間通りの17時であった。18時からモロゾフの松宮隆男の講座「マーチャンダイジング」が始まった。モロゾフの社長に就任するためには東京支店長を経験しなければならないというような話を聞いたことがある。

当時はまだ東京の百貨店で「神戸ブランド」は定着していなかった。「神戸コロッケ」の岩田弘三も松宮隆男と仲がよかったが、RF1の人気が沸騰するのはまだ後のことである。1978年3月にルイ・ヴィトンが西武と高島屋に出店して、本格的な日本進出をしてきた。八重洲ブックセンターが華々しく開店した年でもでもあった。私はそこでうずたかく平積みされていたガルブレイスの『不確実性の時代』を買ったことをはっきりと記憶している。松宮隆男の具体的なマーケティングの講義は、井上優の理論と違って現場で日々、しのぎを削る人々にはうけた。なかでも昨年の「ヨーロッパの食とギフトを学ぶ研修旅行」に参加した菓匠三全の「萩の月」はANAの機内茶菓に採用され、仙台の銘菓が一躍全国の人々の知るところとなった。松宮の講義を聞きながら、何故かこのことが脳裏をかすめた。インベーダーゲーム(スペースインベーダー)が全国を席巻したのは1979年であったが、漫画ブームやゲームブームにまで講義の巾はひろがった。

講義が終わって、「ウンブリアのマイスターと夕食会」があったが、母が疲れたと繰りかえし言うので、夕食会には参加せずルームサービスでサンッドイッチをたのんだ。フォンテガイアーのオーナーのギターに合わせて、またカンツォーネを歌えといわれることも避けたかった。

[あえて蛇足ながら、中田英寿がイタリアセリエAのペルージャに移籍したのは1998年である。このとき彼は21才]

<つづく>

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