2009年10月21日
|
『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第四十七回 月守 晋
●志津さんの就職 大正8年以来の第1次世界大戦終結による戦後不況、昭和2年3月に突発した金融不況とあいつぐ企業倒産に世の中が苦しんでいたこの時期に、女中奉公をやめて養母みきの手元に引き取られた志津さんは、女中奉公に出された時と同様、みきのすすめで「鐘紡」に勤めに出ることになった。 現在は化粧品や医薬品、食品などのメーカー「カネボウ」として知られているが創立された明治19年(1886)年には綿花を取引する商社だった。この商社が翌年、東京隅田川の河畔の鐘ヶ淵に紡績工場を建て、地名にちなんで明治22年に社名を株式会社「鐘淵紡績」と変えたのである。 志津さんが勤めることになったころの「鐘紡(かねぼう)」は日本でもトップの紡績会社に成長していた。 鐘紡が神戸に紡績工場の建設に着手したのは明治27(1894)年6月で、29年9月から4万錘(すい、糸を巻き取りよりをかける機械)規模の大工場として操業を始めた。 工場が建設された場所は和田岬に近い、大正7年の「神戸市街全図(和楽路屋刊)」では湊西区御崎材となっているところである。明治時代の地名では兵庫県八部(やたべ)郡林田村と東池尻村にまたがった地域に相当するようである。 この場所を選んだのは、その頃の綿花綿糸の輸入輸出の中心地大阪ではすでに多くの紡績会社の工場がひしめいており、問題になっていた会社間の職工獲得競争をさけるためだったといわれている。また、神戸は兵庫港と神戸港2つの港をもち新産業地域として発展が見込まれる土地であった。 養母みきのすすめで鐘紡に通い始めた志津さんだったが、勤めた期間はさほど長くはなかったようである。せいぜい2,3か月くらいの短期間だったようだ。 仕事は郵便係だった。社内社外から兵庫支店工場に届く郵便物を仕分けし、各部署に配達してまわる。各部署から他の本支店(東京本店、住道支店、中島支店、洲本支店)に出される郵便物を各本支店ごとに仕分ける、といった単純作業である。 「鐘紡」は大正6年に病没した実母みさが女工として勤めていた会社である。みさはこの会社で電気技師をしていた大垣静夫と出会い、恋におち、志津さんを生んだのである。 しかし、そういう事情を詳細には知らされていなかった志津さんには、かつて実母みさと父親の静夫が働いていた同じ会社で働くことになっても特別の感情をもちようがなかったようである。 ところがある日突然、その父親が志津さんをたずねて家へやってきたという。 「烏帽子をかぶったモダーンな人やった」と志津さんはいう。だが、それ以上の感情はもたなかったと。会えたのが3年前だったら事情は大きく異なったろう。しかし父親は「モダーンな人」という感想を志津さんに残しただけで去っていった。そして2人が出会う機会は2度とやってこなかったのである。 鐘紡は女子工員に対する労務管理の点では先進企業だった。たとえば兵庫工場では明治37年に女学校を寄宿舎に設置し、40年11月には本科4年、幼年科6年、専科3年の学校教育令による女学校へ発展させた。本科では修身(道徳)、国語(読み、書き、作文、話し方)、算術、唱歌、裁縫、体操を教えた。 志津さんの実母みさが鐘紡に勤めはじめたのがちょうどこの時期だから、ひょっとするとみさも私立鐘紡兵庫女学校の女生徒の1人だったかもしれない。 [参考資料]『新修神戸市史』Ⅱ/第2次産業 |
食の大正、昭和史