月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第二十五回

2009年05月14日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第二十五回

月守 晋

 

●怠業、罷業、同盟罷業(1)
大正8年から10年(1919~21)にかけて新聞紙上にひんぱんに現れた流行語は、怠業(たいぎょう)、罷業(ひぎょう)、同盟罷業といったことばだった。

怠業は「仕事を怠けること」、つまりサボタージュ(sabotage)である。もっともsabotage本来の意味は「労働争議中にわざと機械・設備を壊して生産を妨害すること」なので大正8年9月18日、神戸川崎造船所の1万6780人の職工が正午の汽笛を合図にいっせいに整然と始めた“サボタージュ”はむしろ英語でいうslowdown「作業効率を故意に落とすこと」であった。

事実、新聞各紙も「仕事には就かないものの作業位置を離れず、ただ機械が動くのにまかせて手も出さず見ていた」と工員たちの様子を伝えている。

争議の発端は労働者側が

1. 日給の歩増し
2. 特別賞与(社長が春に約束した375万円)の分配期日の明示
3. 年2回の賞与支給
4. 食堂、洗面場他衛生設備の完備

を会社に要求したことによるものだった。

サボタージュは上の要求に対する会社の回答を不満として始まった。
20日には兵庫分工場3300名の職工のうち鋳鋼部の1300名がサボタージュに参加した。そして27日、電気工場の800人を除く怠業参加者全員が同盟罷業、つまり「ゼネラルストライキ」に突入する。

こうした労働者側の動きに対して会社側は27日午後、職工側交渉委員と社長との会見の席上で突如、葺合・兵庫両分工場でも1日8時間労働制の実施とほぼ要求どおりの給与引上げ実施を社長の口から発表する。

この優遇策から外されることを恐れた職工側交渉委員は、29日から正常勤務に戻れば分工場同様の労働条件改善が受けられるという口頭での約束を取りつけて総罷業を中止するのである。

川崎造船所の労働争議はこうして終息したが注目されるのは会社側が提示した「1日8時間労働制の実施」だろう。

それまでの就労時間は全工場10時間で製鈑工場にいたっては11時間と決められていた。「世界工業界の大勢に鑑み」と会社は説明しているが、低賃金+長時間労働がもたらす安い製品価格は世界の市場でひんしゅくを買っていたのかもしれない。

ともあれ新労働条件は同年10月1日から実施された。それによると

(1) 営業時間 (午前6時30分招集、同7時就業、正午~0時30分昼食、午後3時半停業)
(2) 日給は就業時間8時間に対し従来の10時間と同様額を支給し、更に従来至急せる歩増し7割を
本給に繰り入れ支給す。従来の7割歩増し制度は廃止。

この他にも日給の賃上げ、残業代の支給も定められた。残業代は3時間は日給の1割、4時間は2割、5時間4割、6時間4割5分、7時間5割、8時間5割5分、引き続き24時間作業の徹夜には日給の4日分を支給する、とある。

志津さんの誕生した明治44年(1911)、日本で最初の労働立法である「工場法」が公布され、大正5年9月1日から実施された。この法律では15歳未満の男子工と女子工の就業時間が1日12時間に制限されている(2時間以内の延長、つまり残業を認めている)。

そのことを思えば、1日実動8時間(拘束9時間)という勤務条件は画期的なものだったといえるだろう。

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